朝、教室に入ると黒板に新しい座席表が貼ってあった。そういえば、昨日の帰りのショートホームルームでそんな話をしていたなと、祐はぼんやり思い出した。

「中間試験も終わったし、席替えくじやるか」

 そう言って先生はあみだくじを前の席から回し始めた。祐は適当に左から三番目のところに名前を書いた。

 教卓の前まで行って、新しい自分の席を確かめる。座席は出席番号で書いてあった。四番。ドア側から三列目の、前から四つ目の席。

 振り返って確認すると、ひとつ前の席に悟が座っていた。そのななめ後ろ、祐の隣には千夏もいる。どうやら今回はとてもくじ運が良かったらしい。

 席に着くと、悟が振り返ってにっと笑った。

「よかったな」

 祐にささやきかける。たぶん、隣の席に千夏がいることを指しているのだろう。悟は勘違いしている。別に千夏に恋愛感情を抱いているわけではない。けれど彼女が隣にいることはいいことに違いないので、訂正はしないでおいた。

「及川くん、おはよう」

 千夏の、少しかすれて低い声が聞こえた。机の上には英単語帳が開かれている。小テストの日でもないのに、熱心なことだ。

「おはよう、若宮さん。隣よろしくね」

 そう言うと、千夏はほんの少し口角を上げて、また単語帳に目を落とした。

「なあ祐、英語の予習やった?」

 悟が椅子にまたがるようにして後ろを向く。

「やったけど、どうしたの」

「見せて」

 両手を合わせてぱっと明るい笑顔を見せる。調子がよくてお気楽で、だけど憎めない。悟には不思議な愛嬌があった。

 黙ってノートを手渡すと、悟はサンキュ、と言って受け取った。いそいそと背中を丸めて写していく。彼のこういうところが、祐は嫌いじゃなかった。

 がらがらと教室の前のドアが開いて、藤堂先生が入ってきた。

「お、みんなちゃんと新しい席に着いてるな。黒板が見えんとか、不便があったら俺に言ってくれよ」

 学級日誌を教卓に置く。日直が「起立」と号令をかけた。祐は少しだけ背筋を伸ばして胸を張った。座る場所が変わっただけなのに、教室の空気ごと入れ替えたような新しさがある。猫背でいるのはもったいない気がした。

 

 藤堂先生の「始め」と言う声で、一斉にシャーペンが机を叩きだす。書く、という勢いではない。叩くのだ。教室の空気は刃物のように鋭くとがっている。少しでも身じろぎしたら肌が刃に触れてしまいそうで、息苦しい。周囲の必死さに自分だけが置いて行かれている気がして、シャーペンを持つ手が少し震えた。

 毎週火曜日の四限目は数学の小テストがある。十点中七点以上取らないと追試になるから、みんな必死だ。

 そんなに難しい問題でもないのに。

 ペンを走らせながら、祐は思う。問題集に載っているのをそのまま転用しているから、事前に解き方を確認しておけばまず追試にかかるようなことにはならないし、そもそもきちんと授業を聞いていれば特別に復習しなくても解ける。

 試験開始から六分を少し過ぎたくらいで、祐は三問すべてを解き終えた。試験時間はあと四分。あれほど激しかったシャーペンの音も、そろそろまばらになってくる。時折、紙がぐしゃっと折れる音が聞こえる。焦って解答を直そうとする人が、消しゴムごと巻き込んだのだろう。

 じりじりとしか進まない時計の秒針を見つめる。

 最近、クラスメイトの自分を見る目が、今までになかったものを含んでいる。憧憬、羨望、嫉妬。どれもあまりきれいなものではない。それに、誰の目にも祐の本当の姿は正しく映っていない。

 誰がどのテストで何位だったか。そういう噂は誰が広めるわけでもないのに広がっていく。悪口ではないけれど、その噂は多くの負の感情をはらんでいる。進学校を名乗るこの学校の中では、成績に興味がない人の方が少ない。

 中間試験の総合順位は、やはり一位だった。このことは瞬く間に学年中に広がったようで、最近は知らない人にあいさつすると必ずと言っていいほど「あの及川」と言われる。本人にしかわからないようにして成績が返却されるのに、どうして他人が自分の順位を知っているのか謎だったが、及川祐の名前は学年一の秀才として校内に響き渡っていた。

 正直、そういう扱いはうっとうしい。向けられる視線が嫌で、どう振舞っていいのかもわからなくて、自分が浮かべている表情が作り物のような気がしてくる。

 まわりの熱に溶け込めないまま、周囲を振り切って一位を取り続けている。それは果たして幸せなことだろうか。誰の気持ちも理解できない。それは、誰も祐の気持ちをわかってくれないのと同じことだ。

 自分が知らないところで、及川祐がどんどん大きくなっていく。それがものすごく恐ろしいのに、誰もそのことを知らない。

 タイマーがテストの終わりを告げる。隣で千夏が小さく肩を震わせた。急に大きな音がしたから驚いたのかもしれない。

 藤堂先生が「はい、止めー」と言って手を叩いた。

「隣の人とプリントを交換して。解答いくぞ」

 千夏がはい、と紙を渡してきた。小さな声で「けっこう間違えてるかも」と言う。いつも自信がありそうで、どこかを強く見据えている彼女にしては、弱気な発言だと思った。

 彼女の答案用紙には、整然とグラフが並んでいた。三問とも答えは出ているようだが、最後の一問は祐が導き出した答えと違う数字が書いてあった。

 黒板に雑なグラフが書きなぐられる。藤堂先生の板書の汚さは学校内でも有名だった。けれどその一方で、授業のわかりやすさで先生に並ぶ人もいないという噂だ。他の先生の授業を受けたことがないからわからないけれど。

 先生の説明を聞きながら、三問目の解答にバツをつける。赤いボールペンで正答を書きこむ。安い再生紙が、水性のインクを擦って滲んだ。先生が示した採点基準にしたがって、三問目に部分点をつける。千夏の名前の横に、大きく7と書いて、下の方に小さく「及川」とサインをした。

「すごいね、及川くん。満点」

 千夏が返してくれた答案用紙には、几帳面な丸が三つ並んでいる。

「別にすごくないよ。普通。若宮さんだって追試は免れたわけだし、いいんじゃない。違ったのも最後の問題だけで、それも途中まではできてただろ」

 フォローのつもりで言ったが、千夏は首を横に振った。

「そういうことじゃないの」

 つぶやいた千夏の横顔は、祐がこれまで見たことのない表情だった。楽しみにも、嫌気にも、悲しみにも恐れにも怒りにも、知っている感情のどれにも分類されそうにない。ただ、いつも強気な彼女らしくなくて、けれど、らしくないと笑い飛ばすこともできないような、思いつめた顔をしていた。

 

 昼休憩の教室は、食べ物の匂いで満ちている。あまりいいにおいとは言えない。出来立てのおかずはおいしそうなにおいがするのに、不思議なものだ。

 席はまばらに空いている。他のクラスや食堂で食べる人もいる。隣を見ると、千夏の姿はもうなかった。いつもは教室の自分の席で食べているのに、今日はどこに行ってしまったのだろう。

 祐は悟とひとつの机に向かい合って座っていた。

「なあ、俺また変なこと言ったかな」

「若宮さんの話か?」

 弁当の包みを解きながら、悟が訊き返す。

「そう」

 祐は購買で買ってきたパンの袋を開けながらうなずいた。

「さっきの数学の小テストでさ、採点のとき、若宮さんひどい顔してた」

 ぽつぽつと出てくる祐の言葉に、悟はひとつずつあいづちを打つ。深くため息をついてから、悟は言った。

「お前、もうちょっと自分がすごいんだってことを自覚した方がいいぞ」

「別に……」

「ほら、すぐそうやって、これが普通、みたいなこと言うだろ。それがダメなんだよ」

 被せるように言われて、祐は少しむっとした。何がいけないのかわからない。できることをひけらかしているようなやつの方が、よっぽどいらいらするのに。たとえ自分が「できる」のだとしても、できるだけ目立たないように、普通でいたかった。

「前に座ってたから聞こえたんだけどさ、お前小テストの後で若宮さんにも『普通』って言ってただろ。それがあの子にはつらかったんだよ、たぶん」

「なんで……」

 なおも訊き返すと、悟はまたため息をついた。

「逆に、なんでわからないんだよ。すごいお前がそれを『普通』って言っちまったら、本当に普通の俺たちはどうなるんだよ。ゴミくずか? 惨めじゃねえか。ましてやあの、超真面目に勉強頑張ってる若宮さんがお前にそれを言われたら、はらわた煮えくり返ってもおかしくないと思うぜ」

「そういうもんか……」

 もそもそとパンを咀嚼して飲み下す。どうにも腑に落ちない。

 すごいと言われても、祐には自分のすごさがわからなかった。どれだけ勉強ができても、真っ白な世界に色はつかなかった。祐にとって成績は、いつでも切り離せる付属品のようなものだった。例えば、駅前の塾が宣伝のために配っているポケットティッシュみたいな。持っていれば便利だけど、持っているからといって褒められても嬉しくはない。

 黙々とパンをかじっていると、後ろから声をかけられた。振り返ると、矢島あかりが満面の笑みで立っている。

「ねえ、今日の放課後、数学教えてくれない?」

「どうしたの、急に」

 授業以外でまともに話したこともない相手にいきなりそんなお願いをされて、祐は戸惑った。

「困ってるのはあたしというより友達の方なんだけどね。あたしじゃ上手く説明できないから教えてあげてほしいの」

 さらさらのストレートヘアを揺らしてあかりが小首をかしげる。悟が「モテるな、祐」とちゃかしてきた

「別に俺じゃなくても、数学出来る人なら学校にいくらでもいるだろ。わからないなら本人が先生に聞けばいいわけだし。それに俺、バスの時間があって早く……」

「バスは何時なの?」

 言い終わらないうちに、畳みかけるようにあかりが訊ねる。口ごもっていると、悟が祐の背中をバシッと叩いた。

「いいじゃねえか。今日は六限で終わりだ。七限目まである日に無事に帰れてるんだから、一時間くらいは付き合えるだろ?」

「まあ、そうだけど」

 断る手段がことごとく潰されていく。あかりがキラキラして目で「お願い」と見上げてくるのを見て、祐はあきらめた。

「……じゃあ、一時間だけ。六時半を過ぎたら本当にバスがなくなって帰れなくなるから、それだけは勘弁して」

 やった、とあかりが小さくガッツポーズを作る。悟とハイタッチまでして嬉しそうだが、祐としては面倒くさいばかりで何もよくない。

「悟、お前も参加だからな」

 睨みつけながら言うと、悟はからっと笑って「無理」と言った。

「俺、今日部活あるから。先輩怖いからできるだけ近寄りたくないんだけど、無断欠席とかしたらそれこそ大変なことになるからさ、行くしかないんだよな」

 大げさに首を振る悟に、祐はくそ、と悪態をついた。

 ちょうど千夏が教室に入ってきたのが見えて、渡りに船とばかりに祐は声をかけた。

「ねえ若宮さん、放課後に勉強会やるんだけど、参加しない?」

 顔を上げて彼女の顔を見ようとしてから、ふと、間違えたかも、と思った。さっき間違えたばかりなのに。何がいけなかったか、悟にどれだけ説明されてもわからないが、自分の言葉が悪かったのはわかる。

 千夏は今、どんな顔をしているだろうか。怖くて目が合わせられない。

「ごめん、今日は早く帰らないといけないから」

 千夏が言う。思ったより明るい声に、そろりと顔を上げて口許だけ見てみる。彼女はすっきりと微笑していた。けれど、その笑みは少しも輝いていない。くもった鏡のような鈍さで、それが彼女の世界を映しているのだと思った。

 俺は何を間違えた?

「ええ、若宮さん来れないの? 残念だなあ。若宮さんも頭いいから、一緒にできたらよかったのに」

「ごめん。また今度ね」

 残念そうに言うあかりを、千夏は穏やかになだめている。悟も何か言っている。

 遠い。耳に水が詰まったみたいに、周りの音がこもって遠くなる。

 ああ、聴こえない。みんなの声がどんどん遠ざかっていく。透明な板が降りてきて、世界と祐を隔離する。普通ではない祐は、みんなと同じ世界にいることを許してもらえない。この守られた自分の世界の中でしか、生きていられない。

「じゃあ、悪いけど若宮さん、今日はひとりで帰って」

 目を合わせずに、祐は言った。顔を上げたら最後、自分を守る結界が壊れてしまうと思った。

 

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