3
一位という順位は、祐にとってそれほど珍しいものでもなかった。
返却されたばかりの模試の結果。学年順位は一位。中学のときもそうだった。分母が変わっただけで、高校に入っても頂上から見える世界は変わらない。
開け放った窓から、ほのか暑さを予感させる風が吹き込む。気の緩みそうな七限目だった。
教室はざわついている。大声で順位を吹聴するやつ、恥ずかしそうにこそこそ隠すやつ。誰もが少しだけ、緊張感を持っている。ギラギラしていると言ってもいい。思ったより結果が良くて自慢したそうにうずうずしている人。結果が悪くて気落ちしている人。みんな少なからず感情が揺れ動いているみたいなのに、結果を見ても祐の心は少しも動かない。嬉しいとか、残念だとか、何も感じない。
なんだかアクリル板越しに世界を見ているようだ。自分だけ、風すらも入り込まない部屋の中で穏やかにみんなを観察している。
ふと気になって、千夏の方を見てみた。彼女の席は、窓際の一番後ろにあった。
千夏はぴんと背筋を伸ばして成績表を眺めていた。いや、眺めるという表現はこの場合正しくない。凝視だ。教室の端と端くらい離れている席からも、千夏の眼力が伝わってくるようだった。何度見ても結果は変わらないのに、なにをそんなに見ることがあるのだろう。
教室はいつまでもざわざわしている。先生も大目に見ているのか、特に注意はしない。暇を持て余した祐は、ペンをくるくる回しながらたいして興味もない成績表を眺めた。
総合評価の欄に大きく印字された「S1」の文字が目に飛び込む。学力ランクのことらしいが、こんなふうに表記されると牛にでもなった気分だ。教科ごとにもランク付けされていて、軒並みSがついている。
その下にフレンドリーな言葉でアドバイスがあった。得意なところ、苦手なところが分析されて、国公立大学も夢じゃない、みたいなことが書いてある。きっと、模試のデータ分析をもとにコンピューターが書いた文章なのだろう。一部を変えれば誰にでも当てはまりそうな内容だった。
「なあ、祐はどうだった?」
後ろの席の悟が、祐の肩をぐいっと引っ張った。勝手に祐の成績を覗く。
「うわ、めっちゃいいじゃねえか。なんでもっと嬉しそうにしてないんだよ」
机から身を乗り出して祐の肩を揺さぶる。
「そんなに羨ましい?」
振り返りながら言うと、悟の表情が固まった。また、やってしまったらしい。
「……お前それ、他のやつの前で言うなよ。中学はそれでもよかったかもしれないけど、この学校でそれ言っちまったら完全に嫌味だからな」
「ごめん」
「いや、俺は気にしないけど。まだ一か月くらいの付き合いだけど、祐がそういうえげつない性格じゃないってことはわかってるから」
悟が真剣な表情で言った。悟のような人は珍しい。たいていの人は空気が凍り付いたあと、何事もなかったかのように話をすり替える。祐の何がいけないのか、教えてくれる人は母以外にあまりいなかった。先生たちも気づいているのかいないのか、誰も教えてはくれなかった。
「俺のも見るか?」
悟が自分の成績表を渡してきた。
「お前の成績見た後だと、余計に残念に見えるな。けっこう頑張った方だと思うんだけど」
Bが並ぶ中、ぽつぽつとAの文字が浮かんでいる。
「別に気にすることないだろ。成績なんか誰かと比べてもしょうがないじゃん。こういうのは自分との戦いだって、先生もよく言ってるし」
「くそ、黙って聞いてりゃぬけぬけと。ちょっとくらいまわりのことも気になるだろ。というか気にしろよ」
そういうものなのか、と祐は思った。いつも一番だから、周りと比べることなどなかったのだ。
前の方で音がした。藤堂先生が、黒板で使う大きいコンパスで教卓を叩いていた。
「おーい、そろそろいいかー」
さあっと波が引くように教室が静かになる。さっきまでが騒がしかったせいで、静寂が耳に痛い。
先生は今後の学活の時間にどんな活動をするのかを、プリントを見ながら話している。教室の大多数は先生の話なんてまるで興味がなさそうで、成績表を裏返してみたり机の下で単語帳をめくっていたりする。大きな声で話している先生が少し不憫に思えたが、よく考えれば声が大きいのはいつものことだった。
また、千夏の方を盗み見る。彼女はきちんと顔を上げて先生の話を聞いていた。ただ、なんとなく心ここに在らずというふうで、背筋はさっき見たときよりさらにまっすぐ伸びていた。
彼女、今日は一緒に帰れるだろうか。
あの日声をかけて以来、千夏とは都合が合えば一緒に帰るようになっていた。部活に入っていない生徒はほとんどいないため、下校時間が重なる人は彼女くらいしかいなかったし、学校から駅へ、出発点も目的地も一緒なのにわざわざ別行動しているのもおかしい気がした。
祐も最初こそ真面目に話を聞いていたけれど、だんだんどうでもよくなって右から左へ聞き流す。成績表が目に入った。Sが並んでいる。これはとてもいいらしい。
――及川くんなら北高でも十分やっていけると思うよ。
西高を第一志望に決めたとき、中学の担任が言った言葉を思い出した。北高は県内屈指の進学校だ。西高も進学校ではあるけれど、五番手六番手といったところでその差は歴然だった。
――でも、北高は家から通えないので。
そう断ると、そんなもんかね、と言われた。祐にとってはそんなものだった。何かにこだわることはあまりなくて、決断はいつも狭い範囲でしてきた。家から通えて、大学進学も普通にできる、この条件に当てはまるのが西高しかなかったから、祐は西高に出願した。
いろんな人から「もったいない」と言われた。けれど祐はぴんと来なかった。母子家庭でそれほど裕福でもないし、勉強のためにお金のかかることはしたくなかった。あのときの判断は、消去法には違いないが間違ってはいなかったと思う。
「あと二週間もしないうちに、みんなにとって初めての中間試験がやってきます。抜かりなく、納得のいく結果が出せるように頑張りましょう。ああ、数学でわからんところがあったらいつでも質問受けるぞ。たいてい数学研究室にいるからな」
先生が言い終わるか終わらないかくらいのところでチャイムが鳴った。ぞんざいな挨拶をして、授業が終わる。
また教室は騒がしくなる。話題はやはり模試の結果だった。
たったこれだけのことに、みんなどうしてそんなに熱くなれるのだろう。はたから見れば羨ましい結果も、祐の心の湖面にはひと粒のしずくさえ落とさない。
果たして、自分が熱くなれることなんか、この世に存在するのだろうか。
ときどき、自分と周りの人たちの間には透明な壁があるのではないかと思う。見えているのに、こちらからは手を伸ばせない。向こうからも手を指し伸ばされることはない。何の干渉も受けることのない場所で、たったひとりで生きている。
「祐、掃除行こうぜ」
教室のドアに手をかけて悟が振り返った。
「おう、今行く」
立ち上がってから、もう一度だけと千夏の席を見た。彼女はまだ、背筋を伸ばして座っていた。彼女も、ひとりだった。
「なあ、祐って若宮さんに興味あるの?」
「興味って?」
廊下を掃きながら訊き返す。
「野暮だな、好きなのかって訊いてるんだよ」
その問いは、祐にとってあまりに唐突だった。しばらくぽかんとした後、ぽつりと「かっこいいとは思う」と言った。たしかに千夏とはよく一緒に帰っているし、クラスの中では数少ない友人でもある。けれど、周りの人にそんなふうに見えているとは思わなかった。悟が考えるような気持ちを彼女に対して持ったことは、一度もない気がする。
「というか、なんでそんな発想に至ったわけ?」
ちりとりを取りに教室へ戻ろうとする悟を捕まえて、祐は訊いた。
「いや、雰囲気というか……勘? そういうのあるじゃん。俺はけっこう敏感な方で、なんとなくわかるんだよ。祐はわかんない?」
「わかんない」
そう答えると、悟は笑った。
「お前、鈍感そうだもんな」
「そんなふうに言わなくてもいいじゃん」
遠慮とか慎みというものが抜け落ちているやつだな、と祐は思った。そういうところが悟のいいところでもあるのだが。
「じゃ、俺ちりとりとってくるわ」
「おう」
教室に入っていく悟の背中を見つめていた。彼はいいやつには違いない。けれど、祐の世界に色をくれる人ではない。
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