放課後の教室は、空気が軽い。

 ノースフェイスのリュックサックに荷物を詰めながら、祐は思った。先生がいないからだろうか。先生がいるときの教室の空気は、分子の動きが鈍い気がする。液体の中に沈んでいるような感じで重たい。放課後の分子は活発に動き回って、それまで生徒たちを押さえつけていたものから解放される。

 大きく開け広げた窓から、四月のくすぐったい風が入り込んで頬をなでる。

「あ、ごめんみんな。明日までって言われた古典の課題プリント、配り忘れてた」

 庶務委員の男子が黒板の前で声を上げた。しっかりしろよと野次が飛ぶ。彼は軽い調子で謝りながら、教卓の上にプリントの束を置いた。風で飛ばないようにと乗せられた黒板消しからチョークの粉が落ちて、プリントを汚した。

「ねえ、もう帰っちゃった人がいるんだけど」

 教室の入り口のあたりから声がした。いっそ全員でやっていなければ怖くない、などと誰かが言い出して、教室が騒がしくなる。祐はちらりと千夏の席を見た。もう、荷物も彼女もいなかった。

 慌てて廊下に飛び出して、窓から身を乗り出す。グラウンド脇の歩道を目線でたどると、千夏のあずき色のリュックが見えた。

「若宮さん!」

 大きな声で呼ぶと、千夏の足が止まった。声の主を探してきょろきょろする彼女に、「上、四階だよ」と言う。千夏の視線が吸い寄せられるようにこちらに向かった。目が合って、祐はにこりと笑った。

「ちょっと待ってて。忘れ物。明日提出の古典のプリント。今持っていくから」

 それだけ叫ぶと、祐は教室に戻ってリュックをひっつかんだ。教卓のまわりの人波を縫って進むようにしてプリントを二枚ひったくる。出てくる途中でもみくちゃにされたせいで、プリントはあちこち折れていた。

 走りながらリュックを背負う。プリントはカバンに収める余裕もないまま、手に持って鉄階段を駆け下りる。もつれる足がもどかしい。

 千夏と話をしてみたい。あのときどうして祐が考えていることがわかったのか。

 これはチャンスだ。今を逃したら、次に声をかけられるのがいつになるかわからない。

 階段を下りると、すぐ下に千夏が来ていた。

「大丈夫?」

 息が上がっている祐を見上げて、千夏が訊く。祐は満足に口もきけなくて、黙ってプリントを差し出した。

「ああ、これ、この間先生が授業で言ってたやつ。なんかごめんね、持ってきてもらっちゃって。それもこんなに急いで。ゆっくりでよかったのに」

「いやいや……。なんか、庶務委員が、配り忘れてたみたいで……。間に合って、よかったよ」

 切れ切れに言うと、千夏はありがとうと言って受け取ったプリントを丁寧に半分に折った。フェンスの向こう側、すぐ隣のグラウンドで、サッカー部が練習をしている。黄色の5番のゼッケンをつけた人が、ピンクの8番にボールを奪われた。悔しそうな顔で走っている。光る汗が太陽に照らされてやけに眩しかった。

 俺には、あんな顔できない。

 悔しいという感情は、まだよくわからない。あの表情をしている人をみんなが「悔しそう」と言うから、そうかあれは悔しいのかと思ってきたけれど、身をもって実感したことはなかった。悔しい顔ができる彼らには、この真っ白な世界がどんなふうに見えるのだろう。

「いい天気だね。部活日和」

 千夏が目を細めて言った。

「若宮さんは部活しないの」

「しないよ」

 サッカーボールを目で追いかけながら、千夏は答えた。風に揺れるポニーテールを、首の後ろで押さえている。

「なんで」

「勉強しなくちゃいけないから。他のことに気を取られてる暇はないの」

 祐の方に向き直って、千夏は言う。見上げる瞳は祐をとらえているけれど、本当はもっとどこか遠くを見ているようだった。

 校門をくぐって、急な坂道を下る。会話は思うように続かなくて、沈黙の中で二人の足音だけが聞こえる。千夏の深い茶色のローファーが、陽を浴びて光っていた。少し暑くなった気がして、祐は学ランの前を開けた。

「そういえば、こんな時間に下校してるけど、及川くんこそ部活してないの」

「ああ、うん。俺、家が遠いから登下校だけで時間かかるんだよね。だから部活できなくて。終バスも早いし」

 これは建前だ。誰かに訊かれたら、こう答えるようにしている。けれど本当は、やりたい部活もなくて選ぶのも面倒だから入っていないだけだ。

「そっか、残念だね」

 そんなふうに受け取られると、良心が痛む。たしかに条件的に部活に入るのは難しいけれど、我慢しているわけでもなければ、面倒くさい部活の勧誘を断る口実にもできてラッキーなくらいだ。千夏に嘘をついたわけではないけれど、何とも言えない居心地の悪さを感じた。

「さっきのは建前。本当は、部活とか面倒だなと思ってるだけ」

「なんだ、かわいそうとか思って損した」

 千夏はふいと顔を背けた。クールな印象の彼女にしてはかわいらしい仕草で、祐はくすっと笑った。なに、と真顔で見上げられるので、なんでもないと答える。

「実際、かわいそうかもよ。だって、せっかくの青春時代に夢中なことのひとつもないんだもんな」

 アスファルトの歩道を歩く。街路樹のツツジのつぼみが、いくつかほころび始めていた。黄色い点字ブロックの前で足を止める。信号のない横断歩道は、しばらく車が切れそうにない。

「でも、中学では陸上してたんでしょ。自己紹介のときに言ってたじゃん」

「中学は部活してないと内心に響くからね。それに一年生は強制参加で何かしらの部に所属することになってて、辞める手続きする方がめんどくさかったから続けてただけだよ」

「要はめんどくさがり屋さんなんだ」

「そうかもね。陸上部を選んだ理由も、練習時間が一番短かったからだし。生徒の数が少なかったから、部活もあんまり数がなくて選びようもなかったんだよね。だから消去法で何部に入るか決められたけど、高校はいろいろありすぎてどれがいいのかよくわからない。誰かが選んでくれたらいいのにと思うよ。先生とか」

 祐が言うと、千夏はぷっと噴き出した。

「そんなもの、自分で選ぶから楽しいんでしょ。じゃあ、及川くんは先生が数学研究部に入りなさいって言ったらそうするの?」

「そうするよ。たぶん」

 ようやく車が途切れて、二人は歩き出した。

「数学好きなの?」

「別に。特に好きな科目とかないよ。それに、俺はぜんぜん絵心ないけど、先生が美術部に入れって言ったらそうすると思う」

 祐の答えに、千夏は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。偽りのない本心を言うと、ときどき相手が困ったように黙り込んでしまう。自分の発言の何が相手を困らせるのかわからないけれど、自分は変わり者なのだろうということは薄々感じていた。

「ねえ、及川くんってどの辺に住んでるの」

「何もない島だよ。ここから電車とバスで一時間半くらいのところ」

 瀬戸内に面したこの町は、比較的近くに島がたくさんある。橋でつながって本土と陸続きになっている島もあれば、フェリーしか本土への手段がない島もある。

「何もないってことはないでしょ。及川くんはこの町より、その『何もない』って言った地元の方が好きそうだもん」

 そう言われても、何もないというのが率直な見方だった。年寄りばかりで子どもはいなくて、仕事はもちろん、高校もない。島にあってこの町にないもので、祐が寂しく思うものは一つだけだった。

「あの島は、海のにおいがする」

 歩きながら、千夏がこちらを見る。

「海のにおいって、どんなの」

 やっぱりか。祐は少しだけ残念に思った。「海のにおい」と言って、理解してくれた人は今までいなかった。わかったふりをされるのも嫌で、だからあまり他人には言わないようにしていたのだけれど。

 千夏なら、もしかしたらわかってくれるかもしれないと思ったのだ。

「海は海だよ。でも、なんでかわからないけどこの町は、こんなに海が近いのに海のにおいがしないんだよね」

「海のにおいって、磯臭いってこと?」

「そんなんじゃないよ。もっと。こう……」

 上手く言葉にならない。何かひとつのものに例えられるようなものではないのだ。天気や季節、その日の気分なんかが複雑に絡み合っていて、一瞬たりとも同じのときがない。

 誰もわかってくれない。説明しようと言葉を重ねるほど、伝えたいものから遠ざかっていく気がする。自分の言葉を通して曖昧で不完全なものにしてしまうくらいなら、自分の中だけで完璧な姿のままにしておくのがいい。

「行ってみたいな、その島に。わたしも海のにおいが知りたい」

「たぶん来てもわからないと思うよ。他の誰にもわからない。俺にしかわからないんだ」

 川沿いの桜並木から、橋にさしかかる。右手側に、小さく海が見えた。千夏のローファーは、歩くたびにぽくぽくと音を立てる。

「それでもわたしは行ってみたい。行ったことがないんじゃ絶対にわからないけど、行ってみたらわかるかもしれないじゃない。それに、わからないっていうの、嫌いなの。悔しいから」

 最後のひとことが、頭の中で響いた。

「及川くん?」

 ふいに足を止めた祐を、千夏が振り返る。

「若宮さんって、かっこいいね」

「そんなたいしたものじゃないよ」

 千夏がはにかむ。すぐそばを車が通って、巻き起こった風が千夏のスカートを揺らした。どこかで六時を知らせる音楽が鳴っている。この曲は何だったか。

 体操服を着た中学生の群れとすれ違う。薄闇が、町に降りようとしていた。

「帰ろうか」

 祐が言うと、千夏は微笑んだ。その笑顔は、星の瞬きに似ていた。

 

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