羽化前夜

吾野れん

土の中、目覚めの夜

 たすくの世界は真っ白で、いつもきれいに片付いていた。

 すべてのものは収まるべき場所を持っている。形あるものも、ないものも。たいていのものは、どこに収めればいいのかすぐにわかる。だから、祐の世界は整然としていた。

 ぐちゃぐちゃしたものは苦手だ。穏やかできれいな世界を汚していくから。例えばこの、美術の教科書に載っている、色をぶちまけたような絵画の数々。何も塗らない真っ白な状態が一番美しいのに、どうしてこぞって色を付けたがるのか、祐にはわからなかった。でも、みんながそうしているから、きっと意味のあることなのだろう。

 机の下でこっそり見ていた教科書を閉じて、教壇に目を向ける。先生たちが入れ替わり立ち代わりやってきては同じような話をしていく。新入生オリエンテーションと呼ばれるそれは、かれこれ一週間近く続いている。

 祐はため息をついた。高校は、もっと刺激的な場所かと思っていた。見たことのない世界が広がっていて、真っ白な自分に色を付ける意味を教えてくれるのだと思っていた。

 けれど、入学してから聞かされることといえば、大学入試の話ばかりだ。高校に入学するのに特別苦労した覚えはないけれど、入試を終えたばかりでまた次の入試の話をされるのはいささか気が滅入る。

 この学校でしっかり勉強していれば国公立大学に合格できるだとか、部活をしていた人の方が進学率がいいだとか、そんなことはどうでもよかった。過去五年分の先輩たちの進学データが折れ線グラフになってスクリーンに表示されても、白けた気分になるだけだ。

 教壇から目をそらして、祐はおもむろに机の上のペンを持ち上げた。二度、三度、親指を一周するようにくるくると回す。ペンが回ったぶんだけ、時間が早く過ぎていく気がした。

 窓の外に目を向けると、遠くに海が見えた。小高い丘の上にある学校からは、この小さな町がよく見える。クリーム色のカーテンがふわりと揺れて、春の肌寒い風が滑り込んできた。そういえば、こんなにも海が近いのに、この町は海のにおいがしない。

 

 これまで聴いた話を踏まえて自分が高校生活でやりたいことをアピールしなさい。

 黒板に大きく書かれた文字を見て、祐は困った。アピールと言われても、やりたいことが何も浮かばない。

 オリエンテーションも終盤に入って、最後にプレゼンテーションという課題が出された。四人ずつの班に分かれて話し合い、それを発表するらしい。

「ねえ、及川おいかわくんは?」

 急に声をかけられて、祐は我に返った。

「え、ごめん。なに?」

「もう、ぼーっとしてないで話ちゃんと聞いてよ」

 向かい側に座っている女子が、大きな声で笑う。たしか彼女は矢島やじまあかりと言ったか。その隣にいるのが、出席番号が祐のひとつ後ろの上條かみじょうさとる。祐の隣には若宮わかみや千夏ちなつが座っていた。

「で、なんだっけ」

「高校でどんなことを頑張りたいかって話だよ。あたしはコミュニケーションを上手に取れるようになりたくて、上條くんは部活を頑張るって言ってたかな。若宮さんは勉強だって。及川くんは?」

 あかりが身を乗り出して訊いてくる。肩にかかる長くてさらさらの髪が、するんと滑って空に揺れた。

「特にないよ。普通に勉強して、普通に卒業できたらそれでいい」

「えー、それじゃ意見として面白くないからさ、もうちょっと『頑張るぞ』みたいな感じを見せてよ」

 あかりが不満そうに唇をとがらす。面白い意見って何だろう。

「じゃあ、やりたいことを見つけられるように頑張る。これでどう?」

「いいんじゃねえか。なんかかっこいいし」

 悟が机を叩いた。かっこいいって、何がだろう。

「たしかに。他にあんまりなさそうな意見だもんね。自分を見つめ直す、とかつけたらそれっぽくなりそう。ね、若宮さんはどう思う?」

「いいんじゃない」

 どうでもいいといわんばかりの興味なさげな声で、千夏が答える。

「じゃあ決定。及川くんの意見だし、プレゼンも本人の方がいいよね。頼んでいい? ほかの人の意見のメモはあたしがまとめとくから」

 はしゃいだ声でにっと笑顔を向けられると、どうも断りづらい。人前で話すのは苦手ではないけれど、面倒だからあまりやりたくはなかった。どう答えようか頭を悩ませていると、千夏が「わたしが発表したい」と言い出した。

「え、そう? それなら若宮さんにお願いしてもいい?」

 祐は無言でうなずいた。願ってもない申し出だ。

 あかりは報告用のプリントにさっきの話し合いの顛末を書いている。悟は暇なのか、新しい教科書をぱらぱらとめくっていた。手持ち無沙汰で、ペンを回しながらぼーっとしていると、ふいに千夏に肩を叩かれた。

 ――発表したくなかったんでしょ。

 耳元でささやかれる。驚いて千夏の方を見ると、彼女は何でもないような顔をして笑っていた。

「わたし、先生に発表者の申請してくるね」

 さっと椅子を引いて立ち上がる。ポニーテールの揺れる背中から、目が離せなかった。

 ひとことも口に出さなかった、おそらく顔にも態度にも出ていない本心を、さらりと言い当てられた。心の底を見透かされて丸裸にされたようで、かっと頬が赤くなる。初めて、祐の世界に色がついた。恥という色。

 だから、彼女と話がしてみたいと思った。

 

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