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 沙世は昔から、とてもいい子だった。頭が良くて優しくて、誰とでも仲良くできる。先生にも頼りにされて、優等生というのはこういう子なんだろうなと幼心に思っていた。

 沙世と出会ったのは、小学校の一年生のときだ。人見知りで友達もいなかった千夏は、教室の中でひときわ目立つ沙世を、後ろの席からずっと見ていた。沙世は千夏の視線に気づいて声をかけてくれた。千夏は当時から世を眇(すが)めに見るところがあって、真面目で四角四面な性格も災いしてかなかなか同じ年ごろの子と仲良くできなかったのだが、なぜか沙世とは気が合った。

 五年生のとき、担任の先生はテストで点数の良かった子を上から三人、毎回発表していた。千夏が呼ばれるのはときどきだったが、沙世はいつも満点で一番だった。沙世が呼ばれるたび、千夏はもやもやした。思えばあの頃から、沙世に対する劣等感を抱いていたのかもしれない。

『沙世ちゃんって、いい子過ぎてなんか無理』

 トイレに入っているとき、手洗い場の方から聞こえた、沙世の悪口。仲良くしている子の声だった。野外活動の班も同じで、最近は沙世と千夏と三人でいつも一緒に行動していたのに、別のグループの子にそんなことを言っていた。

 プールの授業の前だった。夏の淀んだトイレの空気と、どこかで鳴く蝉の声を今でも鮮明に覚えている。

『たしかにー。ときどき天然というか、あれわざとなのかな』

『授業で算数の問題教えてきたことがあったんだけどさあ、最終的になんでわからないのかわからないって言われたんだよ。天才にはバカの気持ちがわからないんだろうね』

 ああ、沙世もみんなから好かれているわけではないんだ。

 親友なら、真っ先に出ていって今言ったことを取り消させるのが筋だろう。けれど千夏は、トイレの個室から出られなかった。悪口に、腹は立たなかった。それどころか、千夏は共感さえしていた。彼女たちの話は幼くて頭が悪そうだったが、もやもやの原因をぜんぶ言葉にしてもらったような気がした。

 心の中がすっきりしたのと同時に、沙世を強烈に哀れに思った。あの子は優れているがゆえに、誰からも理解されない。友達面した千夏でさえも、本当は彼女のことを何もわかっていなかった。

 自分だけはわかってあげたい。誰よりも近くで、その孤独な背中に寄り添ってあげたかった。そう思う一方で、もやもやは募っていった。優しくしたいのにそっけない態度を取ってみたり、逆にべったり一緒にいることもあった。ひとりぼっちになればいいのにと思って離れてみても、その背中を見て自分がいたたまれなくなることばかりだった。沙世を傷つけてみたかった。でも、できなかった。

 決定的に変わったのは、中学二年生の冬だった。急に部活の同級生が口を利いてくれなくなり、声をかければ逃げられるようになった。最初、千夏は気づいていなかった。これが「いじめ」というものだということに。

 ――ねえ、千夏、大丈夫? 先生に言いに行こう?

 沙世に言われて、初めて気がついた。わかってしまったら、気づかずにいた自分が厚かましくてバカみたいで、恥ずかしかった。恥を知った千夏は、学校に行けなくなった。

 気づかせないでほしかった。知らなければ、みんなに嫌われたまま普通に過ごせていたはずだ。いじめられているという事実より、知らされるまで気づかなかった、ということの方がどうしようもなく恥ずかしかった。

 千夏が学校に行かなくなって三日が過ぎたくらいから、沙世は毎日家にやってきてノートを届けたり時間割を教えてくれたりした。

 ――わたしは、誰が何と言おうと千夏を見捨てたりしない。

 真摯な瞳で、沙世は言った。もやもやする心が、偽善者め、とつぶやく。もう一方で、彼女を好きでいる千夏の心が、優しい言葉に震えた。いつまでも部屋にこもっているわけにはいかないことはわかっていた。沙世は、この暗い部屋から千夏を連れ出してくれた恩人だ。

 部屋を出る決心をした日、この子だけは汚してはいけないと悟った。

 コンクールの報告を聞いた日から、沙世とはほとんど連絡を取っていない。何度か電話もきていたが、千夏は出なかった。後から「今忙しいから」とメッセージを入れて、誘いを断り続けた。

 ちゃんと話せる気がしなかった。特に伝えなければいけないこともなかったが、沙世とのやり取りでこれほど間が開いたことはなかった。そっけない返事をしたことは、少し気にかかっていた。

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