26
ブラウスの袖を三つ折り上げて、紺色のスカートを履く。今日からしばらくベストとはお別れだ。冬服も夏服も、見た目にそれほど違いはなかった。夏服のスカートは心許ないくらい薄くて、光に透かすと向こうが見える。
英単語の暗記カードを手に、千夏は茶色のローファーを履く。玄関を出ると、沙世が立っていた。
「おはよう、千夏。久しぶりに駅まで一緒に行かない?」
なんとなく今会いたくはなかったが、千夏はうなずいて沙世の隣に並んだ。
今にも雨が降り出しそうな、どんよりした朝だ。ベストを脱いだ胴が、妙に涼しくて落ち着かない。高校生になったばかりの頃はよく一緒に駅まで行っていたが、最近はずいぶんご無沙汰だった。部活の朝練や朝補習で忙しい沙世は、いつも千夏より早い電車で行ってしまう。
「そういえば、今日朝練は?」
「ないよ、水曜日は休みなの。学校のホワイト化の一環で県内の高校はみんなおやすみだって聞いたけど、西高は違うの?」
訊かれても、千夏は知らなかった。部活をしなくなって以来、そういう情報は一切気に留めていなかった。
「わかんない」
千夏はそっけなく返事をした。それ以外に言えることもなかった。
小テストの試験範囲の暗記カードをめくりながら歩く。沙世が手元を覗き込んで訊いた。
「何見てるの?」
「別に、なんでもいいでしょ」
正直うっとうしい。どうして今日に限って迎えに来たりしたのだろう。まだ、話せそうにないのに。口を開けば嫉妬があふれ出しそうで、沙世を汚してしまいそうになる。
「歩きながらは危ないよ」
話しかけてもお構いなしにカードをめくり続ける千夏に、沙世が不自然なほど明るい声で言った。
「大丈夫」
「大丈夫じゃないから!」
突然、大きな声がした。沙世は千夏の手から単語カードをむしり取るように奪った。
「ちょっと……」
今日初めて、千夏はまともに沙世の顔を見た。彼女の表情は、見ているこちらが痛みを覚えるほど歪んでいた。
「やっとこっち見た」
沙世が立ち止まる。電車の時間が気になるが、置いていくわけにもいかず千夏も足を止めた。
「ねえ千夏、最近ちょっとおかしいんじゃない? 忙しいってそればっかりで電話にも出てくれないじゃん。狂ったように勉強してるってお母さんから聞いたよ。寝てもいないんでしょ。何なの、わたしに気に入らないところがあるならはっきり言ってよ。自分を傷つけるようなことはしないで。じゃないともう……、耐えられない」
怒鳴るような大声だったのに、声の勢いはだんだん小さくなって、最後はほとんど独り言のようだった。沙世は泣いていた。
泣かせたいわけではない。大事にしたいのに、一方で傷つき涙を流す沙世を見て喜んでいる自分がいる。沙世が近くにいる限り、千夏は勝手に嫉妬して勝手に傷つく。もちろん沙世のせいではない。けれど、彼女もこの痛みを知ればいいのにと、心のどこかで思っていた。
今、目の前で沙世が泣いている。昏い喜びを感じる自分が、気持ち悪くて嫌いだ。
「……沙世は悪くないよ」
千夏の声はやけに落ち着いていた。目の前の出来事なのに現実味がなくて、演劇の登場人物のひとりにでもなったような気分だった。
「そんなこと言われても、信じないから。本当のことを教えて」
「本当だって。悪いのはわたし。ぜんぶわたし」
すべての罪を千夏がかぶって、この話はおしまいにしてしまいたかった。沙世は汚してはいけない。
話はこれでおしまいとばかりに、千夏は歩き出した。
「待って」
沙世が千夏のリュックを引っ張る。千夏はゆっくりと振り返った。
「わたしは千夏の、なに?」
縋るような瞳。あなたはそんな目をしていてはいけない。
「幼馴染で、大事な親友だよ」
千夏が答えると、沙世はふっと鼻で笑った。自虐的な笑みだった。
「わたしたち、本当に親友って言えるのかな。千夏の考えてること、わたしは少しもわからないのに。千夏の踏み入っちゃいけないところは避けてきたつもりだよ。その距離感を守れるのが、親友だと思ってたから」
沙世の涙が、あごの先からアスファルトに落ちる。
「千夏が自分の内面にあんまり干渉されたくないのはわかってる。だから今まで何も訊かなかった。でもわたしはそういうの、聞かせてほしかった。完璧じゃない千夏も知りたかった。千夏がわたしのことを親友だと思うなら、きれいじゃないところも見せてほしいの。誰もわたしにそいうところを見せてくれないから、わたしもきれいで居続けなきゃいけなくなっちゃう。千夏はわたしのことを特別すごいみたいに言うけど、わたしを偶像にしてるのは、千夏だよ」
沙世が肩で息をしている。言われてから、千夏ははっとした。いつから沙世は、自分たちが対等ではないことに気づいていたのだろう。
「お願い、何か言って。何もせずに、千夏がおかしくなっていくのをただ見ているだけは嫌なの」
沙世が千夏の手を取る。見つめられて、千夏は怖くなった。内に抱える醜い感情も、すべて彼女にはわかっているのかもしれない。あれほど一緒にいて、助けてもらった恩まであるのに、嫉妬だらけの本当の自分を見られたら、もう友達ではいられない。千夏のプライドが、それを許さない。
「ごめん」
沙世の手を振り払って、千夏は走り出した。
沙世は追ってこなかった。振り返ればきっと、まだあの場所に立っている。けれど千夏は振り返れなかった。自分が傷つけた人を見るのが怖かった。
追いかけてこないことが分かっても、千夏は走り続けた。運動不足の体はすぐに悲鳴を上げて、脇腹は痛むし呼吸も苦しい。それでも足は止めなかった。
改札を抜けて、ホームに繋がる階段を駆け下りる。ちょうど電車が来たところだった。ドアが閉まる音がして、慌てて車内に飛び乗る。ぎりぎりで閉まったドアに背中を預けて、千夏は息をついた。
足の力が抜けて、ずるずると床に座り込む。近くに立っていた女の人が奇異の目でこちらを見ていたが、気にしている余裕はなかった。心臓は壊れそうなくらい激しく脈動し、そこらじゅうの酸素を取り込もうと必死に呼吸を繰り返す。
泣き出したいような気がするのに、涙は一滴も出ない。沙世はあんなに泣いていたというのに。動悸が治まっても、千夏は大きく息を吐き続けた。そうしていれば、涙が出るような気がした。でも、やっぱり泣けなかった。
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