27

 手元に光が差し込んで、千夏は計算する手を止めた。ふと窓を見ると、光が差し込んでいる。時計を確認すると、もうすぐ六時だった。

 やってしまった。また、一睡もせず夜を明かしてしまった。最近はこういうことが増えている。勉強し始めると時間がわからなくなるのだ。とりあえずノートを閉じたが、今から眠る気にはなれなかった。まず確実に起きられないし、よしんば起きられたとしても微妙に寝たせいでかえって授業中にしんどくなる。

 起きているのに何もしないのはもったいない気がして、学校に行く準備を始めた。現文、物理基礎、英語、数学、世界史、音楽。教科書をカバンに詰める。それから着替え。そういえば、今日は進路希望調査票の提出日だ。忘れないように、父のサインの入った書類をクリアファイルにはさむ。そうこうしているうちに、母が階下から呼ぶ声がした。

「あんたひどい顔色よ」

 千夏の顔を見るなり、母が言った。

「ちゃんと寝た?」

 真正面に回り込んで肩をつかまれて、千夏はふいと顔を背けた。

「今日は学校行かなくていいから休みなさい。ちゃんと寝なさい。ね?」

「嫌」

 母の手を払いのけて、千夏はテーブルについた。こんがり焼けた食パンも、手を付ける気にはならない。レタスとベーコンエッグも、においを嗅いだだけで吐き気がした。コーヒーだけ飲んで、席を立つ。リビングを出ようとしたら、母に手首を捕まえられた。

「待ちなさい。そんな顔色じゃ、学校には行かせられないから。勉強もいいかげんにしなさいよ」

「うるさい、離して」

 必死に振りほどこうとするが、母の力も相当でなかなか離れない。千夏は焦って時計を見た。電車の時間が迫ってきている。

「一日くらい休んだって、どうってことないでしょ」

 そう言われたとき、何かがぷつんと切れた。

「お母さんにはわかんないでしょ!」

 自分でもびっくりするような大声で叫ぶと、母は怯んで手を離した。その隙に洗面所に向かう。最低限の身支度を整えて、逃げ出すように家を出た。時間を確認しようとして、腕時計を忘れたことに気づく。もう電車は行ってしまっただろうか。

 

 朝の電車は、一本遅くなるだけで混み具合が天と地の差になる。

 今まで電車を乗り逃したことがなかった千夏は、このことを知らなかった。スーツ姿の大人たちをかき分けて、隙間を埋めるように自分の体を滑り込ませる。立って息をしているだけでせいいっぱいで、単語帳を開く余裕はなかった。人が多すぎるせいで、いつも窓から眺めている海も見えない。今日の海はどんなだろうと、人混みに押しつぶされそうになりながら千夏は思った。

 ようやくホームに降り立ったかと思うと、どんどん後ろから人が降りてきて背中にぶつかってくる。ずっと狭いところに立っていて体に変な力を入れていたせいか、背中の筋肉がぎしぎしと痛む。こんな朝は二度とごめんだ。

 最近何もかもが上手く回っていない気がする。今朝早く家を出られなかったことも含めて。あれから沙世とは連絡を取っていない。彼女から電話がかかってくることもなくなった。たった十問の小テストすら満点は取れないし、授業はどんどん難しくなって理解が追いつかない。

 一番でなければ、何番であろうとそれは最下位に等しい。すべてはゼロか百かだった。どれだけ勉強しても、ゼロを積み重ねるばかりで満たされない。自分の中の空白を、埋められるものが何もない。

 改札に並んでいると、後ろから祐に声をかけられた。

「珍しいね、こんな時間に会うなんて」

「ちょっと寝坊しちゃって」

 とっさに嘘をついた。曖昧に笑ってごまかす。母とけんかしていたなどとは、恥ずかしくて言えなかった。

 母はわかっていない。たった一日、その一日がきっかけでずるずる学校に行けなくなってしまう怖さをわかっていない。きっと中学校でのあれは、いじめのせいだったのだと思っているのだろう。違うのに。

「まあそんな日もあるよね。俺は寝坊したら完全に遅刻決定だけど」

 祐はからりと笑った。

「ほんと、及川くんは学校に通ってるだけでもえらいと思うよ」

 学校に毎日通うことは、当たり前のようでそれほど簡単ではない。千夏はそれをよく知っていた。

 駅の階段を下りる。タクシープールで、暇そうなおじいさんのドライバーがタバコを吸っている。吐き出す煙は、今日の空と同じ色だ。

「及川くんは、結局どうするの」

 黙って歩いているのも変な気がして、千夏は訊いてみた。意地悪な質問だっただろうか。彼が進路を決めかねているのは、以前から聞いていた。

「どうして選ばないといけないんだろうね」

 祐は空を見上げながら言う。

「十六歳の決断が、人生を二分するんだよ。おかしいと思わない? 間違えたらどうするの」

「駒沢先生の言葉なら、気にしなくていいと思うけど」

 こんな言葉が何の慰めにもならないことはわかっている。大体にしてあの先生は歩く理想の誇大広告みたいな人だ。早く進路を決めろと言ってみたり、進路はしっかり考えて決めろと言ったり、そのときに感じた理想をべらべらしゃべるから言っていることに一貫性がない。熱さはあるが、具体的には何も見えてこない。「理想の生徒教」の信者はそういう熱さに陶酔するのかもしれないが、理想は夢を叶えてはくれない。

「及川くんは、自分が置かれた状況が恵まれてるってことに気づいてないよね」

「どういうこと?」

 ため息交じりに言うと、訊き返された。そういうところだ。見なくてもわかる。自分なんて大したことなくて、当たり前のことが当たり前にできるだけです、という顔。見ているといらいらするのだ。千夏がなりたい一番に祐はあっさりなれてしまうのに、自分が輝ける場所を探そうともしないで簡単にその栄光を手放してしまう。

「わたしは、というか、きっとほかのみんなも、たいていは及川くんみたいに選んでられないの」

 やめろ、と心が叫んでいる。けれど歯止めはきかなくて、言葉がずるずると流れ出ていく。

 祐はとても繊細な人だと思う。何でもできてしまうから、何も選べない。千夏はそれもわかっていた。でも、ときどき凶暴な熱が出て、この繊細な人をぐちゃぐちゃにしてみたくなる。もっと悩んで、圧倒的に普通な自分の言葉でめちゃくちゃになってしまえばいい。

 わかっている。これは八つ当たりだ。沙世に言えない言葉を、祐にぶつけているだけ。でも、あの子は汚せないのだ。

「でも……」

 千夏がぐだぐだ言っていると、祐が口を開いた。

 やめろ、言ってはいけない。

「及川くん、ちゃんと決めようとしてるの? ほんとは、逃げたいだけなんじゃないの?」

 傷つける、快感。一瞬遅れて、後悔の波がやってくる。

 言葉に詰まるように、祐は黙り込んだ。しばらくの沈黙の後、祐は笑って言った。

「若宮さん、やっぱりかっこいいよ」

 祐の笑顔に、千夏はいたたまれなくなった。その言葉は、千夏に向けられていいものではない。千夏の悪意に気づいていないから笑えるのか、それとも気づいていながら笑っているのか。どちらにしても悲しかった。

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