28

 暗い部屋の中で、ベッドの手元の灯りだけつけて千夏は単語帳のページをめくっていた。試験も終わって課題もないのでたまには早く寝ようと布団に入ったが、まともに勉強もせず寝るのが不安で、かれこれ一時間もこうしている。

 この前の期末試験で、千夏は一教科だけ一位を取った。一番得意な古典だ。猛烈に勉強してようやく取った一位だが、あまり嬉しくはなかった。祐が受けていない試験で一位になっても、その結果は嘘な気がする。彼がいれば、間違いなくその座は彼のものだった。

 数週間前から、祐はずっと学校を休んでいる。前日まではいつもと変わらない顔をしていたのに、ある日を境にぱったりと来なくなった。最後に会ったのがいつだったか、どんな話をしていたのかも思い出せない。

 学校に行けなくなるなら、彼より自分の方がお似合いだろうにと千夏は思った。

 勉強していない時間が怖い。学校に行かないのも怖い。一日でも休んでしまったら、次に学校に行くのが怖くて、そのまま不登校になってしまいそうだから、どんなに体調が悪くても学校には行く。そういう毎日が、つらい。

 認めたくはないが、沙世に言われなくても自分が少しおかしいことには気づいていた。

 気づいているからこそ、あと少し千夏は狂いきれない。本当に狂っている人は、自分のおかしさに気づかないものだろう。わずかに残った理性が、千夏をまともに引き戻す。通常と異常の狭間にいるときが一番苦しい。こんなにも苦しいのなら、いっそ狂いきってしまいたかった。

 沙世とは相変わらず会っていない。あれから数件メッセージも来ていたが未読のままで、通知の赤バッジを見るたびに目をそらしている。何度かメッセージを開いて返信しようと思ったこともあった。スマートフォンを握ったまま、頭の中で何度も文面を考えたが、考えはまとまらなかった。あんなことがあったのに、何事もなかったかのようにメッセージを送れるほど、千夏の神経は図太くなかった。けれど、謝れるほどの器量もない。

 単語帳を枕元に置いて、電気スタンドの光に右手で影を作ってみる。薄明りに、濃く長い影が伸びる。

 沙世を振り払った右手。この手を今日、あかりに「友達になってよ」と握られた。沙世がいれば、友達なんていらないと思っていた。教室でする友達ごっこに興味もなかった。けれど、今の千夏に友達と呼べる人はいるのだろうか。

 祐がいない教室は寂しかった。あのとき衝動的にぐちゃぐちゃにしてしまいたいと思ったが、心の底から彼がそうなることを願っていたわけではなかったのだ。そんな大事なことに、千夏はいまさらのように気がついた。彼が学校に来なくなった理由の一端は自分にある気がする。償いたくても、償う相手はいない。

 あかりの手は、嫌じゃなかった。大切に包み込まれて、すべてを肯定されたような気がした。思わず左手を添えてしまうくらい、安定感があった。

 睡魔が思考を絡めとる。千夏は目を閉じて、上げていた右腕を瞼の上に下ろした。闇がにわかに訪れる。意識が深いところに引っ張られるのを感じた。睡眠不足で疲れた脳が、じんとしびれる。そのまま、泥のような眠りについた。

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