29

 駅のホームでじっとしているだけで、首筋を汗が伝う。千夏はブラウスの胸元をばたつかせて、空気を送り込んだ。

 夏休みに入ったというのに、なぜか毎日登校している。「補習」と称する全員参加の授業があるせいだ。出席日数には数えられないらしいが、授業は進むので休むわけにもいかない。

 不思議なのは、誰もこれをおかしいと言わないことだ。クラスの誰もが当たり前のように受け入れているのを見て、千夏は気味が悪かった。「理想の生徒教」は、生徒の思考まで奪っていくのだろうか。

 反対側のホームの階段から、沙世が降りてきた。手荷物が少ないから、部活だろうか。まじまじと見ていると目が合いそうになって、千夏は慌てて目を逸らした。

 喧嘩をした日から、一か月以上が過ぎていた。本当はもっと早くこうなる運命だったのかもしれない。自分だけは沙世を理解してあげたかった。まるでそれが自分の役目のように思いあがって、物わかりのいいふりをしてそばにいたから、辛うじて友達の形を保っていただけなのだ。本当の千夏は、あの夏のトイレで沙世の悪口を言っていた女の子たちと何も変わらない。卑怯なぶん、彼女たちよりたちが悪かった。

 向かい側のホームに列車が入ってくる。数人の乗客が乗り降りして、三両の列車は次の駅へと出発した。当然、沙世の姿はもうなかった。

 生温い風が、千夏の髪をさらう。風に散らされた髪の束をつかむと、じんわりと熱をはらんでいた。しばらくして、千夏の立っているホームにも電車が来た。

 夏休みだからか、学生の姿はあまりない。勤め人ばかりの車内で、千夏は立ったままぼんやりと海を見ていた。そういえば、こんなふうにゆっくり海を見るのは久しぶりだ。いつもは単語帳をめくっていたりして、目をやる暇もなかった。久しぶりに見る海は、太陽の光を浴びてきらきらと跳ねていた。眩しすぎて、どうしてか泣きたくなる。

 隣の駅に着く。目の前のドアが開くと、あかりが立っていた。

「千夏ちゃんおはよう」

 あかりが笑いかける。高い位置でくくったさらさらの髪が、彼女の動きに合わせて揺れた。

「矢島さん、今日は早いんだね」

「うん、今日はちょっと早起きできたからね。千夏ちゃんはいつも来るの早いみたいだから、この時間に乗れば会えるかもと思って。ビンゴだったね」

 光る海より明るい笑顔を向けられて、凝り固まった心が少しずつ溶けていく。少し前までは、あかりの笑顔を見るたびに無性にいらついていた。本心ではない感じがして、へらへらしているのが痛々しかった。けれど、今は嫌ではない。今の彼女の笑顔からは暖かいものを感じる。

 正直に言えば、あかりは苦手なタイプだった。いつも明るく楽しくやって、器用に手を抜いて不真面目に真面目をする。千夏とは正反対で、交わることもないと思っていた。けれど、最近のあかりを見ていると、それは彼女が演じていた皮だったようだ。キラキラした集団の中にいたときより、今の笑顔の方が輝いている。きっとこれが本来の彼女なのだろう。

「ねえ、千夏ちゃん。あたしのこと矢島さんって呼ぶの、他人行儀だからやめようよ」

「あかりんとでも呼んでほしいの?」

 あかりを横目で見ながら言う。彼女は少し考えてから「それはちょっと嫌かな」と言った。

「あかりちゃんって呼んでほしいな」

「気が向いたらね。わたしは気を許した人しか下の名前では呼ばないから」

「えー、呼んでよ」

「そのうちね」

 千夏は曖昧に交わして笑った。あかりはいい子だと思う。けれど、友達になるには少し眩しすぎた。

 電車を降りて駅を出て、二人並んで歩く。太陽は焼け付くように降り注いで、頭のてっぺんを焦がしていく。暑い、以外に話題もなく、それでもあかりは別段気にしていないようだった。

 川沿いの桜並木にさしかかる。いつだったか、放課後に祐と寄った公園が見えてきた。一本の桜の木の下で、千夏は足を止めた。

「どうかした?」

「いや……。蝉の抜け殻が落ちてて、ちょっとびっくりしただけ」

「ほんとだ。これ、まだ新しいね。今朝羽化したのかな」

 あかりがしゃがみこんで抜け殻を観察する。ふと顔を上げて、千夏の方を見た。

「ねえ、知ってる? お姉ちゃんが教えてくれたんだけどね、蝉は夜に羽化するんだって。土の中で長い間過ごして、夜明けとともに人生を始めるの。なんかいいよね」

「昆虫だから人生とは言わないんじゃないの」

 千夏が茶々を入れると、あかりは「細かいことは気にしないの」と言って、抜け殻に手を合わせた。

「本体はどこかに飛んでってるんだから、手を合わせるのもなんか違う気がするけど」

「違うよ。あたしはこの子の幸せを祈ってるの。いい人生送れよって。蝉の命は七日間っていうでしょ。新しいフェーズで頑張ってねって」

 あかりの話を聞きながら、千夏は祐のことを思い出していた。なぜ彼は学校に来なくなってしまったのだろう。何でも誰かの言うとおりで、彼の中身はからっぽのように意思を感じられなかったのに。誰かが休めと言ったとは思えない。だとしたら、何が彼に意思をもたらしたのだろう。

「及川くん、夏休み明けたら学校来るかな」

 あかりがつぶやいた。心を読まれたかのように祐の話題が出てきて、千夏は一瞬どきっとした。もしかしたら、あかりも同じようなことを考えていたのかもしれない。自分たちに痛みという名の抜け殻を残して、祐はどこかへ行ってしまった。

「わかんない。けど、来てくれたらいいなとは思ってる」

 そっと立ち上がる。千夏は小さな声で言った。どちらからともなく、二人は学校へと歩き出した。

「千夏ちゃんは、及川くんのことが大事なんだね」

 あかりが微笑みながら言った。

「どうしてそう思うの」

 訊ねると、あかりは少し言いにくそうに視線を揺らした後で、「言っても怒らない?」と訊いた。

「怒らない」

 そう答えると、あかりは深呼吸をしてから口を開いた。

「千夏ちゃんって、自分の中に占める『自分』の割合が大きいでしょ。なんというか、自己中って言うと言葉は悪いけど。他人にあんまり興味なさそうだし。なのに、及川くんにはそこまでの気持ちを持ってるってことは、大事なんだろうなと思って」

「そんなきれいなものじゃないよ」

 祐には、ひどいことも言ってしまった。心根の醜い千夏が抱く祐への感情が、そんなにきれいであるはずがない。

「きれいじゃなくても、大事にしたい気持ちの大きさは変わらないよ」

 あかりの声は、なぜか自信に満ちていた。

 

 教室に入ってリュックを開けると、スマートフォンの着信ランプが点滅していた。学校では使用禁止だから電源を落とさなければならないのだが、どうしても気になって千夏はカバンの中で画面を表示させた。待ち受け画面には、一件のメッセージ。差出人は、及川祐だった。

 どうしたのだろう。祐からメッセージが来るのはとても珍しいことだった。たしか一度だけもらったことがある。あれは千夏が学校を休んだ日だった。事務的な連絡がいくつか書いてあっただけの、そっけないものだった。

 メッセージを開くと、挨拶をしているクマのスタンプが送られてきていた。画面を開いたのとほとんど同時に三行くらいのメッセージが届いたのだが、内容を確認する間もなく祐に送信取り消しされてしまった。『今日は学校に行こうと』というところまでは読み取れたが、内容は判然としない。

 嫌な予感がする。なぜだかわからないが、ふいと祐がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。きっと今、祐は暗い部屋の中にいるのだろう。誰かが助けてあげなければ。

「千夏ちゃん?」

 硬い表情でリュックを覗き込んでいる千夏を心配するように、あかりが呼びかける。反応を返さない千夏を見かねて、「ちょっとごめんね」とあかりはリュックの中のスマートフォンを覗き込んだ。

「……助けに行かなきゃ」

 どんな意図があって祐が千夏にメッセージを送って来たのか知らない。けれど、確実に呼ばれているのだと思った。

「そう思うなら、行っておいでよ」

 あかりの声が、優しく鼓膜を打つ。

「だめだよ。授業あるもん」

「そんなの、あたしが先生にいくらでも適当な嘘ついてごまかすよ」

「でも、授業進むし」

「授業の内容なんて、後であたしが教えてあげる」

「でも、授業に出ないとわたしは……」

「バカなこと言わないでよ、大事な人なんでしょ!」

 でも、でもと言っていると、急にあかりが叫んだ。教室中の人が、千夏とあかりに注目している。

「場所を変えようか」

 千夏のリュックを持って、あかりが教室を出ようとする。足に根が生えたように自分の席から動かない千夏に、あかりはため息をついて戻ってきた。

「行くよ」

 無理やり手を引っ張られて、椅子と机がガタガタと音を立てた。半ば強引に、あかりは千夏を階段の踊り場まで引っ張った。リュックを足元に下ろして振り返る。

「千夏ちゃんは、行かないとだめだよ。大事にしたい人には真心を持って接しなきゃ」

 長らく引っ付いていた友達をきれいに捨て去って自分のところに来たあんたがそれを言うのか。そう思う一方で、そんなことがあったあかりだからこそこのセリフが言えるのかもしれないとも千夏は思った。

「矢島さんのいうことはわかった。でも、わたしは行かない。行けないよ。だって、授業より大事なものなんかないんだから」

「なんでそんなに授業にこだわってるの」

「そんなに言うなら、矢島さんが行けばいいでしょ」

「あたしが行ったってしょうがないでしょ。メッセージをもらったのは千夏ちゃんなんだから」

 じりじりと前のめりに詰め寄ってくるあかりに、千夏は後ずさりする。

「何をそんなに怖がってるの。千夏ちゃんはいつも勉強頑張ってるよ。あたしはずっと見てたから知ってる、千夏ちゃんが誰よりも勉強してたこと。あんまり頑張るから、それしかない千夏ちゃんをかわいそうだと思ってた」

 あかりが穏やかに微笑む。あまりにきれいで眩しくて、千夏は目を逸らしたくなった。

 いつしか、自分のことが見えなくなっていた。あかりに自分がそんなふうに見えていたとは、思ってもみなかった。

「一日くらい休んでも、罰は当たらないよ」

 何も知らないくせに。善人面の笑顔が憎い。そう心の中で抗ってみても、素直になりたい気持ちがそれを許さなかった。憎いはずの笑顔は、何よりも千夏を安心させる。

 校舎の壁に背中を預けて、千夏はゆるゆるとしゃがみこんだ。

「怖い……」

 顔を手で覆って、スカートの膝の間にうずめる。千夏の頭を、あかりが優しくなでた。

「こんなに頑張ってるのに一番になれなくて。学校に行くの、ほんとは辛いけど、一日でも休んだらまた学校に行けなくなるんじゃないかって怖くて」

 震える千夏に、あかりは大丈夫、と何度も言った。

「怖いこと、教えてくれてありがとう。でも、やっぱり千夏ちゃんは及川くんのところに行くべきだよ」

 千夏の頬を手のひらで挟んで、顔を上げさせる。揺れる瞳をぎゅっと見据えて、あかりは言った。

「大事にしたい人には、ちゃんと心を見せなきゃ。あたしに今したみたいにね。じゃないと、だめになっちゃう」

 あかりは目を細める。

 行こう、と千夏は思った。まだ見ぬ明日のことを憂えていても仕方がない。明日学校に行く努力は自分一人でできるけれど、祐は今助けを求めている。

 どれだけ劣等感を募らせようと、祐は千夏にとって気にかかる存在だった。傷つけたい衝動のぶんだけ、彼を大事にも思っていた。

「わたし、行くね」

 千夏はあかりの足元にあった自分のリュックをひっつかんで、階段を駆け下りた。校門を出て、坂道を急いで下る。急勾配のせいで何度も転びそうになったが、千夏は足を緩めなかった。さっき来たばかりの道を戻っていく。通学途中の生徒たちとすれ違うたびに不思議そうに振り返って見られたが、気にしてなどいられなかった。

 ICカードを改札に叩きつけるようにして走り抜ける。いつもは降りない方のホームに降りると、ちょうど乗り換えの電車が来ていた。終点も確認しないまま、千夏は電車に飛び乗った。

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