羽化前夜

30

 人気のないバス停で、祐はベンチに座っていた。

 朝はそれなりに車通りも多かったが、時間とともに減ってきて、十数分前にバスが来たきり一台も見ていない。息をするにも重たいような夏の湿った空気が、祐のまわりにまとわりついている。時間が止まってしまったかのように、何も動かない。

 今日は学校に行ける気がした。正確には、朝起きてからこのバス停に着くまでは、そんな気がしていた。バスに乗ろうとした瞬間、急に体が動かなくなって、それから二本もバスを見送っている。

 今朝学校に行こうと決意したとき、千夏にスタンプを送った。今日こそは学校に行くぞ、という決意表明のつもりで。別に行くとも行かないとも書いてないし、誰に送ってもよかったのだが、だからこそ自分を一番わかってくれていそうな千夏に送った。

 結局バスに乗れなくて、そうメッセージを送ろうとしたとき、急に既読がついて焦った祐は打ちかけのテキストを間違って送信してしまった。すぐに消したけれど、あの不可解な動きを見た千夏はどう思っただろうか。

 まだ母が出勤前だから、家に帰るのも気まずい。でも、いまさらバスに乗ったところで大遅刻だ。ずっと休んでいた挙句、のうのうと遅刻して教室に姿を現せるような図太さは持ち合わせていない。

 誰か助けてくれたらいいのに。

 一瞬そう思った。けれど祐は、頭を振ってその考えを自分の中から追い出した。これでは空っぽだったあの頃と何も変わらない。

 にっちもさっちもいかない状況ではあるが、祐はそれも悪くない気がしていた。今ここで、学校に行くことを自分はまだ拒んでいる。そのことだけが、真っ白だった祐の世界に芽生えた唯一の「自分」だった。何も持たないまま、たくさんの選択肢に埋もれて一度は消えてしまいそうになった。だからこそ大事にしたいし、それを感じるのが嬉しかった。

 太陽はギラギラと容赦なく照り付けて、アスファルトを焦がしている。土の中を抜け出したばかりの幼虫が歩き出すには、少し早かったのかもしれない。

 反対側のバス停に、バスが止まった。知らない間に一時間が過ぎて、景色とともに止まっていた祐の中の時間が更新される。ひとりだけ、乗客が降りてきた。

「……若宮さん?」

 見覚えのある制服に、あずき色のリュックを背負っている。まさか、と思った。ここから学校まで、一時間半はかかるのだ。千夏がいるはずがない。けれど、彼女はどう見ても千夏だった。

「若宮さん」

 道路の向こう側に呼び掛けてみる。千夏がゆっくりとこちらを振り返った。道路を渡って祐のいる方へ歩いてくる。

「なんで、こんなところにいるの」

 驚きと戸惑い。それから、少しだけ嬉しかった。

「なんだか、呼ばれてる気がしたから」

 千夏が微笑む。久しぶりに見た彼女の笑顔は、春の日に星の瞬きを思わせたのと同じくらい輝いていた。

「ねえ、及川くん。わたしに海のにおいを教えてよ」

 

 平日の昼間の海の家は、記憶にあるよりずっと閑散としていた。いつも海を眺めているが、海に来るのは久しぶりだった。幼いころ、よく祖父と海で遊んで、海の家のおでんを食べたのを思い出す。

「かき氷はわかるけど、なんでおでんなの。夏なのに」

 千夏が割りばしで大根を半分に切り分けながら訊ねた。机の上には、湯気を立てているおでんと、ブルーベリーのかき氷が並んでいる。

「海で遊んで冷えた体に、あったかいおでんの美味さが染みるんだよ」

「及川くんはいつも、意外な組み合わせを教えてくれるよね。山頂で食べる羊羹がおいしいこととか」

「おじいちゃんの受け売りだよ。それに、山登りと羊羹は割とありがちな組み合わせだと思うけど」

 まだ熱い大根を、千夏が息を吹きかけて冷ます。その口許を、祐はじっと見ていた。

 彼女がなぜここに来たのか、詳しいことは聞いていない。ただ感じるのは、彼女もまた学校という場所に疲れてしまったのだろうということだけだ。いつ見てもどこか遠くを強く見据えていた千夏の瞳。今日はちゃんと祐のいるところに焦点が合っている。

「知ってると思うけど、わたし学校さぼってきたんだ」

「そうだよね。俺もだけど」

 牛スジを持ち上げる。かき氷はあとで頼めばよかった。野外の席は暑くて、おでんを食べている間にどんどん溶けて液体になっていく。

「わたし、ずっと学校に行かなきゃ、勉強しなきゃって考えに振り回されてたから、今日さぼってここに来るの、すごく怖かったの。でも、電車に揺られてるうちにそういうのどうでもよくなって、吹っ切れちゃった」

 なんてことない世間話のように、千夏は話し出した。

「わたしが怖かったのものは、ぜんぶわたしが自分で作り出した怪物だったんだよ。勝手に恐れて、大きくしちゃってた。冷静になったら、そう思えた」

 べたついた潮風が、二人の間をゆるゆると吹き抜ける。

「矢島さん……。あかりちゃんが背中を押してくれなかったら、ここには来られなかったと思うから、あとでちゃんとお礼言っとかなきゃいけないな」

「矢島さんと仲良くしてるの?」

「最近、ちょっとね」

 意外な組み合わせだと祐は思った。明るくていつも笑っていたあかりと、静かでミステリアスな千夏がどんな会話をするのか、まるで想像がつかない。

 木組みの屋根の隙間から差した光が、千夏の横顔を照らす。ふいに、胸の中の何かが溶けるような心地がした。熱い何かが、どろりと動く。何か新しい感情が祐の中に生まれようとしていた。それが何なのかわからなかったが、祐にとって重要なのはそこではなかった。

 千夏は空っぽになってしまったようだった。抜け殻のようにすっからかんの千夏を見ていると、あの言いようのない感情が胸をうずまく。

 ほとんど溶けて水になったかき氷を、祐はストローでずるずる吸った。かき混ぜると、溶け残った氷がざらざらと音を立てる。眼下に広がる海は、眩しすぎるほど輝いていた。

「食べたら、海に降りようか」

 千夏はストローを咥えたまま、目線だけ上げてうなずいた。

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