31

 砂浜には誰もいなかった。ときどき犬とおじいさんが散歩をしに降りてきたりするくらいで、ほとんど二人きりだった。

 砂浜に腰を下ろしてぼんやりと海を眺める。海はいい。一秒たりとも同じ瞬間がなくて、時が動き続けていることを教えてくれる。海のにおいがする場所でなら、ペンを回さなくても重苦しい空気を感じることもないし、楽に息ができる。

「これが海のにおいだよ」

 今日は少しだけ甘くて、刺激的な気がする。天気やその日の気分によっても変わるから、たぶんまったく同じものを誰かと共有することはできないのだろう。

「わかんないな。でも、ちょっとだけツンとしたにおいがする気がする。なんか物悲しいような……。泣いたあとの、唾液が甘い感じに似てる」

「俺にはその例えの方がわからないな。でも、甘いっていうのはわかる」

 島がぽこぽこ浮かぶ海の、ところどころで空の青と海の青が溶け合っていた。たぶん、千夏と自分の違いはこんなものなのだろうと思う。空と海、明らかに違う二つだが、接地点で混ざり合って、どっちがどっちかわからなくなるくらい同じにもなれる。

 沈黙が続く。波の音と、どこかで鳴く蝉の声が心地よく鼓膜に触れる。強い日差しを体中に浴びて、ずっと引きこもっていた体はそれほど動いてもいないのに疲れていた。このままずっと、じっとしていたい。

 気がつけば、陽が傾き始めていた。大きな鳥が三羽、頭の上をゆっくりと飛んでいく。鳥たちも寝床に帰る時間らしい。そろそろここを出て、千夏をバスに乗せなければならない。今日最後のバスの到着時間が迫っていた。

 長い沈黙を破って、千夏が立ち上がった。リュックの中をごそごそと漁り、一冊の本を手に海の方へ走り出す。千夏の行動はあまりにも唐突で、祐は彼女の背中を呆然と見送っていた。ローファーは砂浜では走りにくそうで、何度も足を取られながら、でも確実に千夏は海へと近づいていく。

 波打ち際で持っていた本を振り上げたまま、千夏は静止した。彼女が持っていたのは、入学からたった数ヶ月でボロボロになるほど使い込まれた英単語帳だった。

 夕日に長く伸びる千夏の影を見て、またあの熱い何かが胸の奥でどろりと動いた。「いとおしい」と言う言葉が、脳裏に浮かんだ。「自分」というものをほとんど持っていなかった祐にとって、何か目標を携えて突っ走っている千夏は羨ましかったし、尊敬もしていた。だが、千夏は彼女の持っている「自分自身」によって、内から爆発しそうになっているようだ。

 彼女はとっくに地中を這い出て、地上を歩いているのだと思っていた。でも、それは違った。彼女も祐と同じ、必死で土の中を這い出ようとしているところなのだ。歪みを抱えながら、それでも土の中を出て歩き出そうとする彼女が、祐はどうしようもなくいとおしかった。こんな気持ちになるのは初めてだった。

 祐は静かに千夏に歩み寄った。

「今日なら、捨てられると思ったんだけどなあ」

 千夏の声は、震えていた。横顔が、夕日を浴びてオレンジ色に染まっている。背を向けているから表情まではわからないが、泣いているのではないかと思った。たとえ涙を流していなかったとしても、彼女のつぶやきは涙と同じものでできている気がした。

「本当に捨てたい?」

 祐の問いに、千夏は小さくうなずいた。この際、千夏の本心はどうでもよかった。心のどこかでまだ捨てられないと思っているから、彼女は単語帳を掴む手を開けない。でもそれほどまでに執着しているなら、きっと手を離した方が楽になれる。千夏は、少し楽になった方がいい。

 偽善でも構わなかった。祐は千夏を救ってあげたかった。それが、ひいては自分を救うことでもあるような気がした。

「それ、俺に捨てさせてよ」

 祐は千夏の単語帳を掴んだ。振り上げられた右手は、あっけなく離れていった。

 大きく振りかぶって、思い切り投げる。英単語帳は、放物線を描きながら海へ落ちた。

 落下地点を、千夏はずっと見つめていた。同心円状の波が消えて、陽が沈むまで、千夏はそこを動かなかった。

 

 千夏がようやく動き出したときには、バスの運行は終わっていた。どうしてもっと早く言い出さなかったのかと言われたが、祐は曖昧に笑っておいた。

 声をかけて早めに帰らせることもできた。だが、それをしてはいけない気がした。ずっと海を眺めている千夏を見て、今夜彼女をひとりにしてはいけないと思った。家に帰れば家族がいるだろうが、そういうことではない。直感的に、自分がそばにいなければならないと思った。たぶん、「自分」がそうしたいと思っていた。

 今日も母は夜勤だから、千夏を家に泊めても見とがめる人もいない。

 風呂から上がって、祐は冷蔵庫から麦茶を出した。二人分、コップに注ぐ。ふと居間を見ると、千夏の姿がなかった。ベランダの窓が三分の一ほど開いている。外から千夏の声が聴こえた。誰かと電話をしているようだ。

 声が止むのを待って、祐はベランダに出た。

「電話?」

「うん。幼馴染と。ごめんね、勝手にベランダ出て」

 千夏が振り返る。及川と縫い取りのある体操服は彼女に少し大きかったようで、肩の位置がずれていた。麦茶を手渡して、祐は窓ガラスに背中を預けて座り込んだ。千夏も、その隣に座る。

「わたし、ちょっとずつ狂っていく間にいろんな人を傷つけたから、とっくに友達なんかいなくなったんだと思ってた。及川くんにもひどいこと言ったし。でも、まだわたしにも、ちゃんと友達がいたみたい」

 千夏にひどいことを言われた覚えはなかったが、訊くのはやめておいた。

「俺は若宮さんの中で、もう友達じゃなかったの。矢島さんは?」

「……どうだろう。及川くんは、また友達になれそうな気がする。あかりちゃんはね、まだ友達じゃないの。わたしには眩しすぎるから。でも、そのうち友達になりたいとは思ってる」

 今日は星が見える。遠くの海で、漁船のランプも点々と光っていた。湿っていて生温い空気と、夜の海のにおい。

「結局、わたしには海のにおいはわからなかったな」

 星空を見上げながら、千夏が言った。

「でもね、わからないっていうのもちょっといいなと思ったよ」

 隣で、ひときわ光る星が瞬いた。

「新学期になったら、学校来る?」

「今はまだ、わからないな」

 今は、行ける気がする。たぶん、明日もまだそんな気がしていると思う。でも、今朝のように直前で臆してしまうかもしれない。

「そうだよね」

 千夏はつぶやくように言った。その一言は、ただの相づちではなく心からの共感のように感じられた。

 それから、ちびちび麦茶を飲みながら二人で星を数えた。星座を見つけて、それにも飽きたら新しい星座とそれらしい神話を作って遊んだ。

 気がついたら、千夏が祐の肩で寝息を立てていた。いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。

 夜の薄闇が、一枚ずつ剥がれていく。白んでいく東の空と、穏やかな千夏の寝顔を交互に見て、祐は口許を緩めた。

 暗い土の中から這い出てきた幼虫が、背中を割るまであと少し。

 まだ、夜は明けない。


【了】

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羽化前夜 吾野れん @ren_agano

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