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 昨日あれほど降った雨が、嘘のようにいい天気だった。千夏は数学教室の前の窓にすがって、目の人の面談が終わるのを待っていた。グラウンド側の窓からは日が燦々と降り注いで、紺色のベストの背中を焼く。そういえば、もうすぐ六月になる。

「若宮さん、どうぞ」

 前の人が資料室から出てきて、奥から藤堂先生が千夏を呼んだ。失礼しますと言って入ると、先生は向かい合わせにしてある椅子を指して「座って」と言った。

「昨日は欠席だったけど、体調は大丈夫か?」

「ああ、はい。ちょっとした貧血のようなものなので」

 まさか寝不足だったとは言えない。千夏はとっさに適当な嘘をついた。

 先生の目が、少し怖い。昨日見た夢のせいもあった。まさかあの夢のようなセリフは言わないだろうし、にらまれて灰にされることもない。でも怖かった。

 藤堂先生は基本的におおらかで穏やかだが、少々ストイックなところがある。そうでなければあれほどハイレベルな授業はできないということなのかもしれないが、この先生に今の自分がどう映っているのかと思うと目が合わせられなかった。貧血くらいで学校を休んだ惰弱者。それならまだいいが、実際はただの寝不足なのだ。嘘が見破られそうな気がしてそわそわする。

「大丈夫ならいいんだけどさ。あんまり無理するなよ」

 先生は優しく微笑む。大丈夫、怖くない。

「成績もいいし、授業態度も真面目だし、勉強に関しては特に言うことないな」

 先生の言い方は、勉強以外のところで言いたいことがあるというように聞こえる。千夏はうつむいて、スカートの太もも部分の布をぎゅっと握った。

 おおかた部活をしろとでも言うのだろう。そうやってみんなと同じようにしていれば万事うまくいくと言いたいのだろう。「理想の生徒教」の信者になるのなんて、千夏はまっぴらごめんだった。

「若宮さんはさ、もうちょっと広い世界を見てみてもいいと思うんだよね。例えば部活をするとか、ボランティアに参加するとかさ。経済的に余裕があるなら短期留学するのもいいと思う。今は勉強のことで頭がいっぱいになってるだろ」

「それの何がいけないんですか。わたしはいい大学を目指すことだけが目標なので、今のままでも別にいいです。高校は勉強するところで、高校生は勉強するための時間ですよね」

「じゃあ、その『いい大学』に入ったら、若宮さんは何をするの?」

 先生が椅子から立って、千夏の前にしゃがみ込む。千夏の肩に手を置いて、二つの瞳をがっちりと捉えられた。

 先生のまなざしが、昨日の夢と重なる。逃げられない、怖い、消されてしまう。

 千夏は悲鳴を上げて立ち上がった。椅子が派手に倒れる。

「ごめん、急にびっくりしたよな」

「……いえ、わたしの方こそ、大げさにしてすみません」

 倒れた椅子を起こして、千夏は座り直した。まだ心臓がばくばくしている。いつもならきれいにスカートのプリーツを押さえて座るが、今はそんなことに構っていられなかった。急に近づいたせいで動揺させたと思っているのか、先生は椅子に戻っている。

「顔色悪いけど、大丈夫か?」

 控えめにこちらを窺う先生に、千夏は噛みつくように大丈夫だと言った。

「なんかさ、若宮さんみたいな子が一番危ういんだよ。俺はそんなに教師歴長いわけじゃないけど、それでもわかる。頑張ってがんばって、ある日突然ぽっきり折れそうで、怖い」

 先生の言葉が意外で、千夏は顔を上げた。今度こそ目を合わせようとする。いつまでもそらし続けているのは、逃げのようで嫌だった。

 けれど、怖いものは怖い。上手く目を見ることが出来ず先生のシャツのボタンのあたりで視線をさまよわせる。

「無理に目線、合わせなくていいよ。俺目付き悪いってよく言われるし」

 さっきの千夏の態度で何か感じ取ったのか、先生が言った。

「いえ、大丈夫ですから」

 そうは言ったものの、千夏は顔を上げられなかった。固く重い空気が肩にのしかかってくる。先生は自分の手元を見ながら話し始めた。

「高校生って、すごい狭いところからしか世界を見れないじゃん。葦の髄から天井を覗くっていうんじゃないけどさ、こーんな狭い箱に、同じ年の子たちと一緒に詰め込まれて、三年経ったら自動的に途方もなく広い世界に投げ出されるだろ」

 こーんな、と言って、先生は手のひらを向かい合わせにして幅を狭める。

「見えるわけないんだよ、世界の全体なんか。でも、今必死で見ようとするしかないんだよ。勉強はたしかに大事だ。世界に出るための手段だからな。でも、高校生がするべきことはそれだけじゃないんじゃないか?」

 何も言わない千夏に、先生は言葉を重ねる。

「出された宿題は、そのときにやらないと後で大変なことになるだろ。今世界を見る目を閉じてしまったら、後で絶対後悔するよ」

 今まではねつけていたはずの先生の声が、するりと胸の内に入り込んできた。先生の言う「世界」がどんなものなのか、千夏にはわからなかった。けれど、伝えたいことはわかった。

 ついと顔を上げてみる。先生と目が合った。先生はともすればきつく見えそうな三白眼を糸のように細めて、穏やかに微笑んだ。

「そうだ、文理選択はどうする?」

「文系にしようと思います」

「そうか」

 先生は肯定も否定もしなかった。

 予鈴が鳴る。

「うお、もうこんな時間か。俺は次の授業が別棟であるから先に出るけど、施錠とかしなくていいからな。若宮さんも授業遅れないように教室戻れよ」

 藤堂先生は慌ただしく資料室を出ていった。ひとりになった千夏は、パイプ椅子の背もたれに寄りかかって脱力した。たった十数分の面談だったのに、ものすごく疲れている。

 先生の言葉はたしかに胸に響いたが、だからといってこれまでのやり方を変えるつもりはなかった。もはや変え方もわからなかった。

 

 六時台の駅のホームは、仕事帰りのサラリーマンであふれている。千夏は一番空いている列の最後尾に並んで、英単語帳を開いた。

 リュックの中でスマートフォンが振動する。単語帳を小脇にはさんで、中から端末を探り出した。画面を表示させると、沙世からのメッセージがあった。

『聞いて! 今年の夏のコンクール、自由曲でソロもらったよ!』

 親指を立てた女の子のスタンプが添えてある。それを見た瞬間、胸の奥で何かがどろりと溶け出した。すごい、と素直に感心する心と、強烈な嫉妬心。

 よかったね、と打とうとして途中で手を止めた。ぜんぶ消して、おめでとうと打ち直す。

 送信前のテキストを見て、何かが違うと思った。千夏は沙世に対して、よかったともおめでたいとも思っていなかった。

 羨ましい、悔しい。沙世は千夏が欲しかったものも、あきらめたものも、ぜんぶ手にしている。

 いい知らせのはずなのに、純粋に喜べない自分が虚しかった。いつからこんな人間になってしまったのだろう。対等だった二人の目線が、大きくなるとともに少しずつずれて、いつしか決定的に合わなくなっていた。

『頑張って』

 これだけは本心だった。一緒に喜んであげられない罪悪感を、派手なスタンプでごまかす。

 電車がホームに入ってくる。スピーカーの調子が悪いのか、雑音が入ってかすれていた。スマートフォンを握りしめたまま、千夏は電車に乗り込んだ。人が多くて、座るどころか吊革もつかめないほどだ。

 電車が発車する。大きく揺れて、肩が誰かの胸にぶつかった。脇に単語帳を挟んでいたのを思い出す。千夏は狭い車内で本を広げた。隣に立っていた男が迷惑そうに息を吐いたが、いちいち気にしてはいられなかった。

 

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