23

 朝、四時のアラームで目を覚ます。半分寝ぼけた頭を無理やり起動させて勉強机に座る。そこから二時間数学の復習。中間試験の結果が返却されてから、これが千夏の毎朝の習慣になった。

 中間試験は、思ったように結果が振るわなかった。せめて得意な国語では一位を取りたかったのに、それすら達成できなかった。数学なんて、他のどの科目より時間を割いたはずなのに一番順位が低かった。あと十点も低ければ追試にかかっていたところだ。

 できたとは思っていなかったが、さすがにこれは予想していなかった。予想外の衝撃というのは実際の何倍も大きく響くものだ。うっかりしたら教室で泣いてしまいそうだった。

 もっと勉強しなければならない。千夏は「一位」が欲しかった。一番になれることで、沙世と肩を並べられる気がした。

 ノートにグラフを描きこむ。最初は苦戦していた二次関数も、繰り返しやれば理解できるようになってきた。問題集と回答集を交互に見合わせながら、解法を身に付けていく。

 暗かった部屋に、だんだんと明かりが差し込んでくる。夜明け前は体が重くなる。いつまでもこうして暗い部屋の中で勉強だけしていたかった。ここにいる限り、誰かに比べられることも、批判されることもない。

 けれど千夏は、暗い部屋に閉じこもる恐ろしさも知っていた。

 中学生の頃、ほんの少しだけ不登校だったことがある。厳密には不登校とも呼ばないような、二週間足らずの出来事だった。いじめのような、でも違うと言われればそうかもしれないような状況が続いて、心がぽっきり折れてしまって、一日だけ、と思ったらずるずる学校に行けなくなった。

 一生この部屋で生きるのかと思ったら、ものすごく怖かった。あのとき沙世が迎えに来てくれなかったら、千夏は今でも学校に行けていなかったかもしれない。

「千夏、朝ごはんよ。降りてきなさい」

 一階から母が呼ぶ声が聞こえた。千夏はノートを閉じて、部屋をあとにした。

 

 タイマーが鳴る。藤堂先生が隣の人と答案用紙を交換するようにと言った。

 千夏はぎゅっと唇を噛みしめた。今朝復習したときには同じような問題が普通に解けたのに、三問目が解けなかった。何も書かないで提出するのは悔しいから、力業で何とかそれらしき答えは書いたが、まるで合っている気がしない。

 祐が千夏の方を向いて自分の答案を差し出した。そうだった。今日から席替えで、祐の隣になったのだ。千夏は自分の答案を渡すとき、自信なさげに「けっこう間違えてるかも」と言い添えた。この答案を自信満々に差し出したと思われたくない。せめて間違いに気づけるくらいは勉強していることを示したかった。

 さすがに追試にはかからないだろうが、用心するに越したことはない。考えうる限り一番悪い結果を想像する。あらかじめ備えていれば、ショックにも必要以上に傷つかなくて済む。

 祐の解答の三番を、恐る恐る見てみる。やはり、千夏が出した答えとは違う数字が書いてあった。途中式を見ていると、今朝復習した記憶がよみがえってくる。あんなにやったのに、どうして思い出せなかった?

 藤堂先生が黒板で裏技の解き方解説している。絶対に授業で聞いた内容のはずなのに、なぜか新鮮に感じる。自分のポンコツ加減に嫌気がさした。

 祐は満点だった。丁寧に丸付けをする。十、と書く手が悔しくて震えた。祐がどれほど勉強しているか知らないが、このクラスに千夏ほど死に物狂いで勉強している人はいないだろう。誰よりも努力しているはずなのに、努力を一段飛びに越えてしまう人たちが世の中にはいる。どうしたって敵わなかった。

「すごいね、及川くん。満点」

 悔しくてどうにかなりそうだったが、そんなことはおくびにも出さずに千夏は言った。あまり悔しがっていると思われるのも嫌だった。

「別にすごくないよ。普通」

 祐は本当に「普通」な顔をして、そう言い放った。神様がいるとしたら、とんだひねくれ者に違いない。力を望む者には決して与えてくれないのに、恵まれた無欲な天才が当たり前のようにそれを手にしてしまう。

「若宮さんだって追試は免れたわけだし、いいんじゃない。違ってたのも最後の問題だけで、それも途中まではできてただろ」

 フォローされればされるほど、悔しさが増す。いっそみじめだった。

「そういうことじゃないの」

 そうつぶやくと、祐は意味が分からないという顔をした。きっと彼には一生わからないのだろう。

 

 すっかり緑になった桜並木の下を、千夏はひとりで歩いていた。ブレザーは小脇に抱えて、ベストだけの姿になる。五月の初旬にしては、今日は少し暑い。校則では「制服の移行期間まで校外では正装でいること」とある。正装というのはブレザーを着た格好のことだが、誰も見ていないのに律義に守っているのが馬鹿らしくなった。

 開校以来一度もデザインが変わっていないという制服は、先生たちに言わせればこの町の伝統と誇りらしい。そんな、形で表すことしかできない誇りなら、跡形もなく吹き飛んでしまえばいいのに。地味な濃紺のブレザーに、同じ色のスカート。リボンもネクタイもなく、質素そのものだ。

 西高の地味な制服に引き換え、北高の制服はずいぶんとかわいらしかった。沙世と並んで写真を撮ったとき、少し残念になったくらいだ。別に制服で進学先を選んだわけではないが、そういうことのひとつひとつに、二人の間の差を感じる。

 ひとりで歩く帰り道は、少し味気なかった。いつもなら隣に祐がいるが、今日は勉強会に参加している。

 祐が勉強会に誘ってきたとき、千夏は裏切られたような気がした。祐はこちら側の人間だと思っていたのだ。何事にも頓着しない彼は、「理想の生徒教」にも興味がなさそうだった。祐には、何かを信じる必要がないのだ。信じなくても、彼の力だけで目標までたどり着ける。彼の秀才ぶりは、今やクラスの誰もが知るところだった。

 信号待ちの車が、ぷすんと音を立てて発車した。千夏は歩きながら、自分のこげ茶のローファーのつま先に目を落とした。歩いても歩いても、変わり映えのしない黒いアスファルトが続く。あまりに単調なせいで、自分が歩いているのか地面が動いているのかもわからなくなってきた。

 どこにいても一番にはなれない。他人と比べることに意味などないことはわかっている。なのに、劣等感ばかりが募っていく。

 プライドなんか、捨ててしまえたら楽なのに。

 川面を眺めながら、千夏は思った。この川の流れに身をゆだねて、どこまでも流されてしまいたい。こんな思いをしてまで勉強しなくても、生きていく道はいくらでもある。適当に楽しく高校の三年間を過ごして、適当な大学に進む。「理想の生徒教」の信者になってしまえば、有名大学は無理でも大学進学くらいはできるはずだ。

 たとえ試験で最下位を取ろうと、小テストで追試にかかろうと、少しも気にせずへらへら笑っていられるような性格だったら、ずいぶん生きるのが楽だっただろう。何を言われても気にしない強さがあれば、学校に行けなくなったりしなかっただろうし、よくできる幼馴染を心から誇りに思えただろう。祐のことも、神様のように崇めていたはずだ。

 けれど、千夏はそれを許せない。毎日何かに追われるように勉強して、流されまいと抗っている。それほど必死なのに、ときどきすべてを手放したくなる。きっと楽になれる。だが、その先に何があるというのだろうか。

「英語の予習でしょ、それから物理の小テストの対策もして、英文法のおさらいもしなきゃ。今日の数学の復習もしよう」

 歩きながら、家に帰ってやることを指折り数える。やらなくてはいけないことがたくさんある。うじうじ悩んでいるよりも、その時間を勉強に充てた方が効率的だ。勉強をしていれば、他に何も見えなくなる。そうやって、煩わしいことはすべて忘れてしまえばいい。

「ふふ、うふふ」

 ふいに笑いが込み上げてきた。ひとりで笑っている千夏を、すれ違う人たちが振り返って見る。気になる人には見世物になってやればいい。むしろ、そうして注目を浴びているのが気持ちよかった。今この場所で、千夏は一番注目されていた。

 

 

 黒板に、二次関数のグラフが並んでいる。十問ある練習問題の答えを、先生が前の席の生徒から順に答えさせている。

 千夏は一番左の後ろの席に座っていた。指名されるまで、あと四人。

 みんな淀みなく答えていく。機械的で、解答を書いているはずのノートさえ誰も見ない。四つ前の席の人が、説明を終えて椅子を引く。床と椅子が擦れる音が、耳に障る。

 次の人が指名される。彼女はもたもたと立ち上がり、しどろもどろな説明をした。教室の空気は張りつめている。黒板に解答を書いていた先生の手が止まった。くるりとこちらを振り返る。先生の瞳は真っ黒で、沼のようにどろりと深い色をしていた。

「不正解」

 そう言って発表していた女子の方を見ると、彼女は灰になってさらさらと崩れ去った。

「次、矢島さん」

 感情の抜け落ちた声で、先生が名前を呼ぶ。前の席のあかりが立ち上がった。彼女もまた、抑揚のない声で滔々と答えを述べていく。

 異様な教室の雰囲気に、千夏は背筋がぞっとした。次は千夏が発表しなければならない。完璧に答えなければ、この場から消されてしまう。千夏は手元のノートに目を落とした。

 そこには、何も書いていなかった。

「次、若宮さん」

 先生の冷たい声が、心臓に刺さった。どうしよう。式だけ見ても、答えなどすぐに出せるはずもない。嫌な汗が背中を伝う。うるさいほど心臓が鳴って、浅い呼吸を繰り返す。

 見慣れているはずの二次式だ。ただ、平方完成をすればいいだけ。

 落ち着けと体に命じているのに、震えが止まらない。こんな状況で、頭が回るはずもなかった。ただひとつ、逃げなければということだけが思考のすべてを占めていた。

 千夏は立ち上がると同時に後ろのドアに向かって走り出した。恐怖で足がもつれる。教室の奥から出口までの短い距離を、何度も転びそうになりながら走った。必死の思いでドアに手を伸ばす。開けようとした瞬間、ひとりでにドアが開いた。驚いて顔を上げると、よく知った声が降ってきた。

「千夏、そんな問題もわかんないの?」

 沙世が歪んだ笑みを浮かべて千夏を見下ろしていた。

「……沙世、なんで」

 嘘だ。千夏の知っている沙世は、こんなこと言わない。

 どうしてここにいるの。なんでそんな顔でわたしを見るの。

 言いたいことはいくらでもあったが、恐ろしいことが立て続けに起こって理解が追い付かない。背後に気配を感じて、千夏は恐る恐る振り返った。真っ暗な瞳の藤堂先生と目が合う。

「信じれば救われるのに。できないやつは、この学校にはいらない」

 闇が深くなる。

 ああ、だめだ。消される。

 

 深いところから一気に意識を引っ張り上げられるように目が覚めた。

「夢、か……」

 背中には汗をびっしょりかいて、寝間着のTシャツが張り付いている。えらく生々しい夢だった。先生の眼力で人が灰になるだなんて夢にしても馬鹿げているのに、本当に消されると思った。

 窓から湿った空気が流れ込んで、カーテンをふわふわと揺らす。雨粒がベランダのアルミの柵を打つ音が聴こえた。机の上のデジタル時計は、午前十一時を表示している。曜日の欄に木と書いてある。なぜ自分は平日の午前に家で寝ているのだろう。

 千夏は寝起きの回らない頭で必死に思い出そうとした。昨夜、数学の復習をしていたら興が乗ってしまって、かなり長い時間やっていたような気がする。

「千夏、そろそろ起きた?」

 部屋のドアの向こうから、遠慮がちな母の声が聴こえた。

「うん」

 返事をすると、ドアが開いた。

「ねえお母さん、わたし、学校は?」

「休むって連絡入れといたわよ。あんた、徹夜したでしょ。起きてこないし、このままじゃ体に障りそうだから寝かせとこうと思って」

「え……?」

 記憶をたどる。明け方まで数学をしていて、そこで記憶は途絶えている。無意識のうちにベッドまで移動したのだろうか。

「勉強するのはいいことだけどね、体壊してまですることじゃないでしょ」

「そうだけど、でも……」

 言い返そうとすると、母が気まずそうに口を開いた。

「あのね、千夏。これは訊かないでおこうと思ってたんだけど、高校にちゃんと友達はいるの?」

「いるよ」

「誰? 名前は?」

 畳みかけるように訊かれて、千夏はすぐには答えられなかった。

「お母さん心配よ。ほら、中学校でのこともあったし。無視されたりしてないわよね? ちゃんと居場所はあるの? 学校辛くない?」

 ああ、うざったい。

 母の心配はわかる。気の強いくせに妙に繊細な娘が学校でいじめられてないか、気が気じゃないのだ。実際、中学校ではそういうこともあった。けれど、いつまでも心配されるような年ではないだろう。友達なんて、いなくても生きていける。最初からいなければ、離れていく寂しさもない。

 千夏は何を訊かれても答えなかった。

「もうすぐお昼ご飯にするから、出ておいで」

 母はそれだけ言い残して、部屋を出ていった。

 ひとりになった部屋で、千夏は再びベッドに潜った。勉強していないと、不安になる。学校に行かないのも。また、行けなくなりそうだから。

 テストの点数のことや言葉にならない焦燥が内側から吹き上がってきて、とにかく何かしていなければ落ち着かない。そういうとき、勉強がすべてを鎮めてくれた。勉強をしているときだけは、それ以外何も見えなくなる。心の安寧を得るために、薬を飲むように勉強を摂取する。ペンを動かしている限り、千夏の平和は保たれる。

 ひどく喉が渇いていた。千夏は立ち上がって洗面所へ向かった。母のいるリビングには行きたくなかった。うがい用のコップで水を汲んで、一気に飲み干す。生ぬるい液体が、食道を伝って空っぽの胃に落ちる。当たり前だが、朝から何も食べていなかった。

 思い出したら急におなかが空いたような気がしたが、やはり母と顔を合わせたくなくて千夏は空腹を無視した。

 部屋に戻って、千夏は机についた。勉強しなければならない。そして、明日は必ず学校に行かなければ。

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