15

 雨がざんざん降ってくる。全開にした体育館のドアから、じっとりとまとわりつくような空気が入ってくる。ストレートパーマをかけた髪はもうだいぶ伸びてきて、根本や前髪が湿気でうねっていた。そういえば、今朝のニュースで梅雨入りが近いと言っているのを聞いたような気がする。

 背中に『西高ダンス部』と文字の入った派手なピンクのTシャツが、目の前にピラミッド状に並んでいる。一番前の頂点で、莉子がカウントを取っている。あかりは四列目の右端で踊っていた。この辺が一番しっくりくる。

 こうして後ろから見ていると、莉子の背中ものぞみの背中もずいぶんと遠い。この距離が二人とあかりとの本当の距離なのかもしれないと、ふと思った。

 教室で隣に座っても、一緒にお昼ご飯を食べても、二人とはどこか距離があった。ときどき訪れる沈黙が怖くて、あかりはひたすら笑い続けた。おかしいことがなくても、笑ってさえいれば大丈夫だった。最初は偽物の笑顔でも、続けていればいつか本物になる。しゃべるのは上手くいかない。焦れば焦るほど空回りして、自分が作り出した妙な空気に耐えられなくなる。こんなはずではなかった。

 あれほど策をめぐらせて始めた勉強会も、成果はあまり芳しくない。あかりが手を尽くして祐とのぞみに接点を持たせようとしているのに、のぞみは少しも近づこうとしない。本当に、見ているだけでいいらしい。

 祐のことが好きだと聞いたとき、のぞみはたしかに恋する者の瞳をしていた。体育祭で彼を眺めていた時も、授業中に彼を盗み見ているときも。あの目に嘘がないならば、のぞみが祐に向ける思いはあまりにきれいすぎる。人に向けるものではない。まるで神様への崇拝だ。たしかに教室の中で祐は神様のような存在になっていたが、それでも人間には違いない。

 ちらりと壁の時計に目をやる。藤堂先生との面談まで、あと十分だった。

「あたし面談だから抜けるね」

 カウントが止まっている間に、莉子に声をかける。莉子は前を向いたまま「了解」と答えた。

 シューズを脱いでローファーに足を突っ込む。体育館から校舎まではかなり離れているから、急がなければ遅れてしまう。

 ピンクのTシャツに赤いジャージ、白靴下にローファー。走りながら冷静になって、最高にダサい組み合わせだと思ったが、今はなりふり構っていられなかった。

 

「矢島さん、頑張ってるな。勉強も部活も両立できてるみたいだし、中間試験も真ん中あたりの順位だし」

 藤堂先生は手を後ろに組んで伸びをした。パイプ椅子がぎしぎしと鳴る。あかりは内心ほっとしていた。中間試験後からは初めての面談で、厳しいことを言われるかもしれないとびくびくしていたのだ。点数も順位も、中学のときには見たこともないような数字だった。父には聞かれなかったから黙っていたが、さすがにこれで満足してもいいものかと言われると自分でも首を傾げる。

「あ、安心した? 心配しなくても、俺はこの面談で成績に対する小言を言うつもりはないから。課題をしてないやつには言うけどね」

「あたし、こんな悪い成績初めてで……」

「ああ、そういう人けっこういるよね。中学校ではお山の大将が、高校に入ったとたんどんぐりの背比べなんだもんな。まあ、矢島さんは普通だから安心して。普通でいいのかって問題もあるけどな」

 先生がにっと笑顔を見せる。それだけで、ぜんぶ肯定されたような安心感がある。普通でいい。ずっと、普通になりたかった。

「しいて言うなら小テストだな。いつも追試ギリギリだし、ときどき赤点取ってるだろ。小さいことだけど、こういうのは積み重ねだからな」

「はい」

 先生の話を聞きながら、あかりはにやけそうになるのを必死でこらえていた。小テストの点が赤点ぎりぎりなのは、わざとだった。範囲を限局された小テストなんて、その気になれば満点を取れる。実際、あかりはいつも満点が採れるだけの事前準備をしている。そして、追試のボーダーラインすれすれを狙って誤った解答を記入する。追試にかかるのは面倒だからぎりぎりを狙うが、たまに目算が外れて引っ掛かることもあった。毎回追試を回避しているだけでもすごい部類に入ってしまうから、たまにはそういうこともある方がリアリティも出せる。

 脱ガリベン対策のつもりだった。小テストの点数はしょっちゅう話題に上がる。いつも高得点だったりしたら、家でがりがりやっているのだと思われるかもしれない。せっかく高校デビューで塗り替えた自分のイメージを、ここで損なってしまっては元の木阿弥だ。

 中間試験のときも同じようなことを考えて勉強していたが、さすがに範囲が広すぎて普通に解くのがせいいっぱいだった。そういう普通な自分が、あかりは嬉しかった。

「ところで文理選択の話なんだけど、矢島さんはどっち希望?」

「文系です」

 ほとんど反射で、あかりは答えた。

「ほう、学部はどこがいいとかある?」

「それは、ないですけど。でも、文系がいいです」

 あかりは重ねて主張する。先生の目が、急に冷たく光った。

「矢島さんのそれは、本心?」

 訊かれて、ひやりとした。別に、やりたいことなんて何もない。理数系の方が強いが、ちょっと頑張れば文系でもついていけると思った。何より、のぞみや莉子が文系にすると言ったから、どうしても文系がよかった。

 こんなこと、誰かに言ったらバカにされるだろう。そんな些細なこと、と笑われるかもしれない。いつかの生物基礎の授業のとき、駒沢先生が「単純に決めてはいけない」と言っていたのを思い出す。

あかりにとってこの決断は単純ではなかった。ようやくつかんだ居場所を、そんなに簡単に手放してしまえるくらいなら、デビューなんてしなかった。

「本心ですよ」

 答えるとき、ほんの少し声が震えた。嘘ではないが、形容しがたい後ろめたさが残る。先生がこれ見よがしに大きく息をついた。

「これが俺の勘違いなら笑って忘れてくれればいいんだけどさ、矢島さん、昔の俺と重なってしょうがないんだ」

 急に先生が語り出した。あかりは訝しげに顔を上げた。

「俺は最初から数学教師だったわけじゃないんだよ。高校時代は文系だったからな」

「え……?」

 思わず声が出た。何の疑いもなく、この人は生まれながらの数学教師のように思っていた。数学の授業中の先生はどんな時より生き生きしていたし、黒板用の大きなコンパスを持っていない先生は先生ではない気さえした。

「当時の担任の先生に言われたんだよ。『世の中は文系が動かしてる』って。俺は自分に誇れる仕事がしたかったから、多いことが出来そうな方を選んだ。俺はあのとき決めたこと、今でも後悔してない。でも、先生のあの言葉がなかったら、俺は好きなものの方に最初から進めただろうと今でも思うんだよ。大好きな数学に、ずっと未練があった。大学で理学部数学科のやつと出会ったとき、好きなことをやってるあいつらがめちゃくちゃ楽しそうで羨ましかった。自分の心をだましながら二年まで通ったけど、どうしてもあきらめきれなかったから、大学辞めてもう一回受験した。ずっと、俺の居場所はここじゃないと思ってたからな。で、まあいろいろあって、今ここにいるというわけだ」

 結局、自分の心に嘘はつけないんだよ。

 先生は腕を組んで、背もたれに体を預けた。

「それは、あたしの考えが甘いって言いたいんですか」

 思ったよりとがった声が出た。先生は自分の話をしているだけなのに、なぜか咎められているような気がしてならない。

「結論から見て、俺は回り道をした人間だからな。それも必要なことだったと思うし、生徒がそれを選びたいっていうのを否定はできない立場だよ。でも、後悔しそうな選択なら、俺は迷わず引き止めたい。回り道はしてもいいけど、後悔だけはさせたくないんだ」

 席替えの日のことを思い出した。この先生は生徒のことをよく見ているのだ。あれはやはり、偶然などではなかった。

 先生の目がまっすぐすぎてどぎまぎする。どこを見ていいかわからなくて、あかりは助けを求めるように先生の奥の窓の外を見た。鈍色で、何もない。

「人にはそれぞれ、しっくりくる場所があるんだよ。お前たちにはできるだけ短い距離で自分の場所にたどり着いてほしいからな。後悔しない、覚悟はできてるっていうなら、止めはしないよ。勢いだけなら、もうちょっと考えてみな」

 

 先生の最後の言葉は、かなりショックだった。どうにかして今の居場所にしがみつこうとしているあかりに、それとなく向けられた言葉のような気がした。藤堂先生にはすべてお見通しなのかもしれない。

認めたくはないが、あかりもわかってはいた。今必死でつかんでいるこの場所が、あまりしっくりきていないこと。デビューして生まれ変わったはずなのに、息をつめて生きていた中学生の頃より、今の方がずっと苦しい。吸っても吸っても空気が入ってこなくて、上手に息ができない。

体育館に戻ろうという気は起きなかった。どうにか退室の挨拶だけして、逃げるように部屋を出た。よろけるような足取りはだんだんと早くなり、気づけば何かに追われるように全力で走っていた。

鉄階段を駆け下りる。行く当てもないあかりは、校舎裏の自動販売機の前でしゃがみこんだ。雨でくるくるになった前髪が張り付く。

ローファー、白靴下、赤ジャージ。ダサいあたし。

みじめにうずくまって、くるくるのくせ毛で、くそ真面目に白い靴下なんかを履いているキラキラのかけらもない女が、本当の矢島あかりなのだ。デビューの魔法が解けてしまったら、もうキラキラしたあの二人と一緒にはいられない。

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