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 物理教室で授業があるときは、少し面倒くさい。毎回授業前に誰がひとりで座るかを決めなければならないからだ。あかりはいつもひとりでいいと言うのだが、決まってのぞみがダメだと言う。

「あかりんがいつもひとりなのはかわいそうでしょ」

 ふわりと微笑む。彼女のそういう気遣いが、最近は少しだけうっとうしい。こんなに優しくていい子なのにそんなふうに思ってしまう自分を、あかりは許せなかった。卑しくて汚い気がして、どんどん自分を嫌いになっていく。張り付いたように崩せない笑顔が、どうしようもなく嘘くさかった。

 結局、今日はのぞみがひとりで座ることになった。

「マキちゃんごめんね」

「いいのいいの、気にしないで。こういうのは平等にしなくちゃ」

 のぞみが笑顔を見せる。かわいいなあ、と心の中でつぶやいた。

 今でもときどき、彼女が自分の友達であることを疑いたくなる。根暗なガリベンなんて、のぞみの隣には似合わない。きらびやかな世界の住人だけが、彼女の隣に立つことを許されるのだ。あかりがそこに立っていられるのは、デビューの魔法が効いているからだ。魔法をかけ続けなければ、ここにはいられない。

 面談があった日の翌朝、莉子になぜ練習に戻ってこなかったのかと訊かれた。ちょっと面談が長引いて、と言うと、それ以上は追及されなかった。たぶん、嘘をついているのはばれている。あかりの後に面談に行った同じクラスの子たちは練習に戻ってきたのだろうから。

 あかりが嘘をついていることを知っていても、莉子は怒らなかった。「そっか」と言って笑って流されたとき、心臓がぎゅっと痛んだ。怒って、どうして嘘をつくのかと詰(なじ)ってほしかったのかったのかもしれない。他人行儀に微笑まれて、勝手に事情を汲んで線引きをされた。その線を越えてきてほしかった。それが友達というものでしょう?

 もう一週間も前の話なのに、あのときの傷がまだ癒えない。

 莉子は大人だった。二人にはたくさん嘘をついている。隠していることもある。のぞみは鈍感なところがあるからどうかわからないが、莉子は他にもあかりが嘘をついていることに、薄々気づいているようだった。テニスなんかしたこともなくて美術部の幽霊部員だったことも、もしかしたら知っているのかもしれない。

 でも、何も言われなかった。言いたくないことは言わなくていいよというスタンス。踏み込まないし、踏み込まれない。遠慮と気遣いでできたこの関係は、ありがたいはずなのに、ときどき無性にいらいらして苦しい。

「ねえあかり、ここわかる?」

 莉子がノートをあかりに見せる。あかりは受け取って自分のノートと見比べた。そもそも描いている図が違うことに気づく。

「ここはこの図だと始まりの位置が違って……」

 説明していると、莉子が訝しげに机の一か所を見つめだした。

「どうかした?」

「ここ、シャーペンで何かの公式が書いてあるの。あと、これは文字……。さびしいって、違う漢字で二つ書いてある」

 その席は、以前あかりがひとりで座っていた場所だった。

「消そうか。誰かが試験のときに落書きに気づかなくて不正行為にされてもかわいそうだし」

 莉子が消しゴムで文字を擦る。

 寂しいと、淋しいが、消えていく。

 どうしてあなたが消すの。あたしのさびしさを知らないあなたが。

 たしかに、誰かに消してほしいと願った。けれどそれは、同じさびしさを知る人でなければならなかった。あの文字を消していい人は莉子ではないし、のぞみでもなかった。

 

 火曜日の放課後勉強会は、なんとなく続いていた。参加者もいつの間にか増えて、クラスメイトなら誰でも自由に参加できることになっている。一年二組のこの取り組みは職員室でも注目を集めているらしく、発案者のあかりはちょっとした有名人になっていた。

 祐とのぞみを引っ付けようという極めて不純な動機で始めたことだけに、先生たちに褒められると何とも言えず微妙な気持ちになる。

 張り巡らせたはずの策略はひとつも功を奏さず、何も変わらないまま期末試験を迎えようとしていた。のぞみは祐との特別な関係を望んでいない。知っていて、それもあかりは粘り強く二人に接点を持たせようとしていた。もう、そうなることを望んでいるというより、惰性に近かった。これをやめてしまったら、のぞみと莉子と三人でいることが出来なくなる気がする。おまじないのように、続けていかなければならないのだ。

 デビューの魔法はすっかり力を失ってしまった。魔法はのろいになっていつまでもつきまとう。もう、キラキラとかそんなことはどうでもよかった。ようやく得た自分の居場所を守るのでせいいっぱいだった。

「あかりん、ここわからないんだけど……」

 のぞみがノートを差し出して、ペンで問題番号を指す。ぱっと見て解法が浮かんだが、すぐには答えを言わなかった。これはチャンスだ。

「ごめん、あたしもわからないや。誰かに訊こう」

 頑張って持ち上げた口角がひくひくと震える。本当はわかっていること、見抜かれていないだろうか。

 顔を上げて祐を探す。彼は自分の席で悟と一緒に課題をしていた。

「及川くん、マキちゃんがここわからないって言ってるんだけど」

 祐が悟に連れられるようにしてこちらにやってくる。面倒くさそうにのぞみに解法を教えだした。

 ここで話を広げなくちゃ。それがあたしの使命で、魔法の代償だから。

「そういえば、上條くんたちは進路希望、文理どっちで出したの?」

「俺は文系。祐は?」

 悟が訊ねる。祐が答えるまでに、妙な間があった。いやな予感がする。

「……実はまだどっちとも決めてなくて。今日は白紙で出した」

 祐は曖昧に笑う。返す言葉が見つからなくて、あかりは声を失った。みんなもそうらしく、誰も何も言わない。彼なりにとても悩んだ結果なのだろう。神様のように全能な祐は、なんでもできるがゆえにどちらかひとつを選べないのだ。こんなときでも無意識に神様であろうとする、祐の笑顔を痛々しくて人間くさかった。

「はは、なんでもできる天才は選びたい放題ってわけだ」

 むやみに明るい声で悟が沈黙を割った。バカ、とあかりは思った。

 気づいてしまったのだ。祐が神様などではないことに。

 祐はひとりぼっちだった。滲み出る彼の孤独に気づいても、あかりはどう手を差し伸べていいかわからない。

 そんなふうに笑わないでよ。いろんな人にやっかまれて、あたしみたいなのに利用されて、追い詰められてひとりぼっちなのに。

 祐の孤独に気づいたのは、たぶんこの教室の中であかりだけだ。あかりも彼の気持ちがわかるわけではない。ただ、寂しそうだと思った。誰にも理解されない悲しさが、あかりの中に吹き込んできて激しく鳴った。

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