17
手を洗いながら鏡を見る。見つめ返してくる自分の顔はどこか冴えない。
トイレから出て、手を拭きながら廊下を歩く。教室に戻っても、今日は誰も出迎えてくれない。昼休憩をひとりで過ごすのは久しぶりだった。のぞみと莉子は英単語小テストの追試に行っている。
こんなことならもう一問ミスして、一緒に追試にかかっておけばよかった。そう思う一方で、ひとりで過ごせることにほっとしている自分がいる。二人がそばにいない今だけ、あかりは呪いから解放される。
教室を見回してみる。みんなそれぞれ好きなことをして過ごしている。ふと、千夏の席に目が止まった。次の古典の単語テストの対策をしているようだ。彼女の勤勉さと成績の良さは、クラスの中でも有名だ。祐にこそ敵わないが、いつも上位をキープしている。相変わらず勉強のこと以外は目に入っていないようだ。千夏を見ていると、悲しいというかもどかしいというか、内からむずむずするような感情が湧き上がってくる。長い人生の中のたった三年しかない高校生活を、そんなものだけに費やしてしまっていいのだろうか。
意外とひとりで過ごしている人が多い。提出期限に間に合わなかった課題をしている人や、誰かのノートを写して必死に古典の予習をする人、優雅に読書をしている人もいる。この教室の中でひとりでいることは、目立つことでも恥ずかしいことでもなかった。
窓際の席に祐が座っているのを見つけた。あそこは彼の席ではなかったはずだ。ちらりと見えた彼の表情が、さっきトイレの鏡で見た自分の顔と似ている気がした。
あかりは祐の隣の席の椅子を引いた。開け放った窓から、雨上がりの濃い土の匂いがした。
「及川くん」
声をかけてみる。祐は振り返らない。
「隣、いい?」
訊ねると、「どうぞ」とだけ返ってきた。あかりは浅く椅子に腰かけた。別に彼の席でもなければ許可を取る必要もないのだが、会話を始めるきっかけが欲しかった。
座ったはいいものの、何を話したらいいかわからない。そもそもなぜ彼に話しかけたいと思ったのか、自分でもわからなかった。
「なに、次の勉強会なら、俺は参加できないよ。用事があるから」
あかりが黙っているうちに、祐が口を開いた。今日の彼は荒れた空気を身にまとっている。
「あの、そうじゃなくて……」
「じゃあなに」
畳みかけるように言われて、あかりは一瞬怯んだ。
「ごめん」
祐が小さな声で言った。うなだれる姿が子どものようだった。
彼は悪くない。無遠慮に話しかけた自分がいけなかったのだ。あかりは小刻みに頭を振った。何か言ってあげたい。昂る感情に任せて、あかりは口を開いた。
「及川くん、マキちゃんのこと好きじゃないでしょ」
言った後ではっとした。なんで、よりにもよってこの話題を選んでしまったのか、あかりは自分でもよくわからなかった。祐の様子をそっと窺うと、驚いたような顔をしている。
「なんで、それを矢島さんが訊くの」
そんなこと、あたしが一番知りたい。
「なんで、だろうね。というか、及川くん気づいてたの」
「あれだけ露骨にやれば、どんな鈍感な奴でも気づくよ」
祐が気づいているとは思わなかった。なんとなく、彼はそのようなことに少しも興味がないのだと思っていた。
「そっか」
自分は何をしていたのだろうと、あかりは思った。自分のも他人のも、人間関係をぐちゃぐちゃに引っ掻き回して。何がしたかったのだろう。
そう思うと、恥ずかしくて顔が熱くなった。耳の端までどくどくと血が巡る。顔を見られないように、あかりは窓の外を覗いた。身にまとっているものを、ぜんぶ脱ぎ捨ててしまいたい。デビューの魔法でたくさん着飾った自分が、ひどく滑稽に思えた。生まれ変わったつもりで、本当のところは何も変わっていないのだ。むしろ、背伸びした分だけ滑稽さが際立つ。
「あたしね、人よりちょっとだけ他人の考えてることがわかるんだ。でも、それを知ってどんなふうに振舞っていいかわからなくて、いつも間違えてる気がする」
震える唇をぎゅっと噛みしめる。言葉にするのが怖かった。いっぺんに言ってしまわなければ、もう一生言葉にできない気がして、息つぎもせずに一息に言った。祐に何か言ってあげたかったはずなのに、聞いてもらっている。本当はそれを求めていたのだと、話しているうちに気づいた。
「あの子たちと上手くいってないの」
上手くいってない。他人から見れば、今のあかりのことをそう呼ぶらしい。
たとえそうだとしても、認められなかった。あかりの居場所はあの二人がいるところだ。三人で、キラキラして楽しい青春を送っているはずなのだ。
「どう見える?」
振り返って祐を見つめる。無理やり作った笑顔は、せめてもの意地だった。さらさらの髪に触れてみる。そうしていれば、今にも崩れてしまいそうな笑顔をどうにか保っていられると思った。
「輪の中心で、楽しそうにしてたじゃん」
祐は過去形で言った。本当はまだ言いたいことがあるような口ぶりだ。
祐はその先を言わなかった。あかりはそれでも満足だった。嬉しかったのだ。自分と同じような表情を浮かべる彼が、ほんの一瞬でも自分の心の奥底を覗いてくれた気がしたから。
「そうかあ」
今度は心から、笑顔がこぼれた。
「及川くんにそう見えるなら、そうかもしれない」
じゃあね、と祐に背中を向ける。ねえ、と祐に呼び止められて、あかりは振り返った。
「なんで俺に言ったの」
なんでだろう。最初に声をかけたときは、ほとんど衝動だった。のぞみのことを訊ねたのも。けれど祐の言葉を聴いた今、彼に話を聞いてほしかった理由がすとんと胸に落ちてきた。
「及川くんは、しがらみとかこだわりとかなさそうで、ニュートラルだから。同じ立場に立ってる人に話してもだめだし、反対側にいる人には理解されないけど、及川くんならちょっとわかってくれる気がしたんだよね」
この教室の中で、たしかに祐は神様だった。けれど本当は、そんなふうに繕っている人間なのだ。だから、わかってくれると思った。
「俺は、わかんないよ。矢島さんが欲しい言葉を、俺はあげられない」
祐の真面目な顔を見て、なぜか泣きたくなった。涙を見せないように慌てて笑顔をつくる。わざと声を上げて、大げさにあかりは笑った。最初は作り物だった笑い声も、だんだん本当におかしくなってきて、いつしか本物になっていた。
こぼれそうになっていた涙をすくって、祐に顔を向ける。
「なんかごめんね。そんなに大真面目に聴いてくれると思わなくて。本当は、あたしにもよくわからないの。自分でもわかんないことを、他人に理解しろっていうのは傲慢だね」
「誰にでも、わかってもらいたいときくらいあると思うけど」
祐の声は、衣擦れに紛れてしまいそうなほど小さかった。これが彼の本心なのだと、声の色から感じた。
「……そうだね」
教室のドアが開いて、のぞみと莉子が入ってきた。あかりは当たり前のように二人の元へ戻った。もう目の前まで自分の気持ちが迫ってきているのに、それでもあかりの居場所はここだった。ここは明るくて笑顔を絶やさない、キラキラを装った矢島あかりの居場所だ。
「追試どうだった?」
「なんとか二人ともパスしたよ」
莉子がため息をつきながら言った。
「やった、じゃあ放課後は一緒に部活行けるね」
自分のはしゃいだ声が、いつもに増して虚しかった。
小テストの束を持った先生が、教室のドアを開ける。今日は、わかる問題はぜんぶちゃんと答えようと思った。自分に魔法をかけてごてごてと着飾ったものを、ひとつずつ脱いでいこう。いつの間にか嘘だらけになってしまった自分を、本当の姿に戻したかった。
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