14
『へえ、順調にレボリューションしてるんだ』
「まあね。お姉ちゃんだって、高校はけっこう楽しんでたじゃん」
『そりゃそうよ。あたしたち、高校がようやく手に入った自由だったんだから。だからって、あんたみたいにストパーかけるほど浮かれてはなかったけどね』
「お姉ちゃんは元からまっすぐだからしなくていいでしょ」
『そうよ、さらっさら。何か文句でも?』
電話越しで相手の姿は見えないのに、ひかりが長い髪を払う仕草をするのが目の奥に浮かんだ。きっと、小憎たらしい顔をしている。
ベッドに腰掛けていたあかりは、立ち上がって勉強机の椅子を引いた。スマートフォンをスピーカーモードにして机に置く。そろそろ明日の予習を始めないと、今日のうちに眠れないことになりそうだ。
「やっぱり、出来上がった関係の二人の中に入っていくのは難しいのかな」
英語のノートを開きながら、あかりは訊いた。
『一から関係を築いていく方が楽だけど、五月も半ばになっていまさらでしょ。もうクラスのグループも固定されてきた頃だろうし、そのまま今のところにいる方が安全じゃないの。あんた真面目だからさ、またひとりぼっちでガリベンとか言われて敬遠されちゃうよ』
「西高は中学校と違って大人っぽい子が多いから、そういう人も輪に入れてあげようって感じだけどね。逆に気を遣われてるなって思うのがつらいかも」
『あー、そういうのあるよね』
ひかりの声を聴きながら、あかりは英和辞典のページをめくっていた。
「あたしね、考えたの。マキちゃんか莉子さんのどっちかだけでもあたしを必要としてくれたら、三人でずっと一緒にいられるんじゃないかって。でね、思いついたの。世の中は需要と供給でしょ。欲しがられるためにはあたしが供給すればいいんだって」
『需要? 供給? 急に何の話?』
「マキちゃんは及川くんのことが好きなの。でも及川くんって雲の上の人みたいな感じがあるから話しかけづらいみたいでさ、いつも見てるだけなの。もどかしいじゃない」
『ちょっと待って、マキちゃんって誰だっけ』
「ふわふわしてかわいい子だよ」
『ああ、あのバレリーナの子ね』
ひかりはひとりでに納得して、続けて、と言った。
「だからね、あたしが及川くんとマキちゃんに接点を作ればいいんだと思って。マキちゃんが数学苦手なのを口実にして、勉強会をセッティングしたの。今日の放課後、さっそく第一回目をやってきた」
誘ったときの祐の顔を思い出すと、少し胸が痛む。あれは完全に嫌がっていた。もしかしたら、今日も千夏と帰りたかったのかもしれない。彼がこっそり悪態をついていたのを、あかりは聞き逃さなかった。彼が優しいのをいいことに、あかりが押し切るようにして話を進めた。
『ふうん、なんか余計なお世話な気もするけど。あんたもそういうこと考えるんだね。ちょっと意外だったな』
「だめかな?」
『だめじゃないけど、そういうふうに必要とされるのが友達なのか、あたしにはわかんないな。もっと純粋で、簡単なことのような気がする。でも、そうすることであんたに居場所ができるなら、それでいいんじゃないの』
「お姉ちゃんって、ときどきものすごく合理的だよね」
『そう?』
「うん。それに器用だし。お姉ちゃんだってあたしと同じ条件で中学を過ごしてたから勉強も大変だったはずなのに、クラスにちゃんとなじんで部活もして、友達もそれなりにいたみたいだし」
『あかりが不器用すぎるのよ』
ひかりが鼻で笑う。
『でもあたしたち、高校は西高以上の偏差値のところじゃないと許してもらえなかったもんね。西高だって、県下一とは言わないけどそこそこ偏差値高いから、誰でも入れるわけじゃないのに。滑り止めも受けさせてもらえないんだもん』
「必死でやるしかなかったよね。自分で学費出せるわけじゃないし」
姉妹で父への愚痴をこぼしあう。娘たちの教育には厳しい人だった。行儀の悪いことはさせなかったし、しっかり学費をかけて塾に通わせ、テストの点も逐一確認していた。愛がないとは言わない。けれど、あかりたちにとっては窮屈だった。
『お父さん、高校に入ったとたんにうるさいこと言わなくなったでしょ。女の子だから大学はその辺の私立でいいよ、とか言ってさ。バカにしてるんじゃないのって思った。いまどきもう、そんなご時世じゃないでしょ』
「そういえば、たしかにお父さん中間試験の結果聞いてこなかったな」
順位も点数も見せられるようなものではなかったから、訊かれなかったことは幸いだったのだが。
『お父さんにとって、あたしたちのゴールは高校なのよ』
ひかりが盛大にため息をつく。
『あたしが国公立にこだわってたのって、西高がそういう目標を掲げてたからっていうのもあるけど、半分はお父さんへの反抗でもあったんだよね。ここでお父さんの言うままに地元の私大に行ってたら、あたしは本当にお父さんの人形になっちゃうと思って』
父の人形。ひかりの言葉がすとんと胸に落ちた。こんなに的確に自分のことを言い表す言葉が存在したことに驚く。あかりは自分がそんなふうに父に踊らされていることに、気づいてさえいなかった。
「お姉ちゃんはやっぱりすごいな」
気がついたらつぶやいていた。ひかりに聞こえただろうか。取り繕いようもないほど、心からの言葉だった。
『そうだ、大学の講義で教授が言ってたんだけどね、蝉はちゃんと自分の木を見つけないと羽化できないらしいよ』
「蝉?」
ひかりが脈絡のない話を始める。彼女はいつもこうだ。突然電話してきて、話したいことだけ話して満足したら切る。ひかりがいる場所は、いつも彼女を中心に回っている。あかりと一緒に父の人形をしていた頃もそうだった。彼女の持っている光で、ぜんぶを包み込んでしまうのだ。灯りなんてぼんやりしたものではない。彼女は名前の通り、ひかりだった。
『そう、夏に鳴いてる蝉だよ。でね、上手く止まり木が見つからなくてコンクリートの壁とかで羽化しようとしても、本来の場所じゃないからなかなか上手くいかないんだって。これを聞いたときに、それって人間も同じじゃないかなと思ったのよね』
高校に上がるとき、ひかりは人が変わったのではないかと思うほどがらりと印象が変わった。家の中ではこれまで通り振舞っていたが、外での振る舞いが変わったのだろうということは空気で感じ取れた。それは、これまでずっとそうすると決めていて、今日から変わるのだというような、はっきりとした意思を感じるものだった。
それまでのひかりはたぶん、明るくて真面目で頼りがいのある委員長のようなキャラクターだったのだろうと思う。それが突然、本当に突然、どこにでもいそうな普通の人になった。何がひかりをそうさせたのか、あの頃あかりにはわからなかった。けれど今ならわかる。ひかりは自分に着せられていた皮を破ったのだ。
あかりとひかりの高校デビューは、同じのようでぜんぜん違う。あかりはひとりぼっちの自分とさよならしたくて自分を変えたが、ひかりは正確に言うと変わったのではない。それまで着ていた偽りの自分を脱ぎ捨てて、自分の居場所を探すために本来の姿に戻ったのだ。
だからひかりは、教授の蝉の話が心に引っかかったのだろう。
『明日一限から講義だから、もう寝るね。あかりも高校頑張って』
ひかりはそれだけ言うと、あっさり電話を切った。自分からかけてきておいて、勝手な人だ。
あかりは開いていた英和辞典に顔をうずめた。とても大事なことをたくさん言われた気がするが、すべてを消化するには量が多すぎて持て余している。
使い古しの辞書からは、少し甘い香りがする。辞書の紙から甘いにおいがするのは、ぜんぶ覚えたら食べてしまうからだと、ずいぶん昔に聞いたことがある。教えてくれたのはひかりだった。
ひかりから譲り受けた、ジーニアスの英和辞典。ところどころにマーカーや付箋が残っている。
「ほんとに食べられるのかな」
あかりは端っこの方の紙をちぎって口に入れてみた。もちろんそんな子供だましを信じているわけではない。でも、好奇心が勝った。
紙は思ったよりしっかりしていて、唾液くらいでは溶けない。しばらく口の中で転がしていたが、あきらめて飲み込んだ。喉に引っかかりを覚えたのは飲み込んですぐのときだけで、いつの間にか消えてなくなっていた。
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