13

 あっという間に五月も半分が過ぎ、中間試験が終わった。結果はまあまあで、ずば抜けていいものも悪いものもない。順位も点数も、すべてが普通だった。

 自分が「普通」になれたことに、あかりはほっとしていた。同じレベルの人が集まる中で頭一つ抜きん出るのは、やはり相当な苦労が必要なのだろう。これほど普通の成績なら、もう「ガリベン」と揶揄されることも、周りに敬遠されることもきっとない。

 あかりは駅から学校までの道を歩いていた。今朝も晴れて空が高い。ブレザーを着て歩くには、汗ばむくらいの陽気だ。あかりは少し浮かれていた。昨日のホームルームで席替えのくじを引いて、今朝その結果がわかるのだ。

 中学生の頃、席替えは憂鬱なイベントのひとつだった。三年生のときの担任は放任主義で、生徒たちに勝手に席を組ませていた。自由にさせても秩序を守れる素晴らしいクラス。先生はそう思っていたようだが、実際はそれほどきれいでも素晴らしくもなかった。先生にそう見えたように、たしかにあのクラスは先生の言うことをよく聞いて、校則もきちんと守って、いじめもなくて、とても雰囲気がよかったと思う。けれど、それは表面のお話。少しその気になって中を覗いてみれば、問題はいくらでもあった。

 別にいじめられていたわけではない。ただ、友達がいなかっただけだ。あの頃どうしてもいい成績を維持しなければならなかったあかりは、それ以外のことに気を回す余裕がなかった。みんなが楽しそうに部活をしているとき、あかりは内申点を稼ぐために生徒会活動に勤しんでいた。みんながとりとめのないおしゃべりをする昼休憩、あかりは机に問題集を広げていた。友達なんて、できるはずもなかった。

 席替えをするとき、あかりはいつも最後まで席が決まらなかった。友達がいないから、誰も自分たちの班に招き入れてくれないのだ。最後の数人が押し付けられるようにいくつかの班に振り分けられるのを、身を切り刻まれるような思いで見ていた。

 誰も悪くない。誰もあかりに意地悪をしようとしていたわけではない。でも、かえってそれがつらかった。好きの対義語は、嫌いではなく無関心だ。

 だから、藤堂先生が席替えをくじですると言ったとき、あかりは心底嬉しかった。もう選んでもらうのを待つことはないし、仲間外れにされるのを目の当たりにすることもない。

 クラスに居場所ができた今ならあんなことは起こらないだろうと、頭ではわかっている。けれど、信じられないのだ。のぞみと莉子の絆の強さを思い知る度に不安になる。二人は優しいから、たとえあかりが二人の世界の邪魔になったとしても排除したりはしないだろう。けれど、誰かひとりパートナーを選べと言われたら、のぞみも莉子もあかりを選ばない。ひとりぼっちになるのはあかりだ。

 新しい席はどんなだろう。話しやすい子と近ければいい。のぞみや莉子と近ければなおよし。でも、誰の隣でも問題はない。キラキラに生まれ変わった今のあかりなら、誰とでも気軽に話せる。

 

 教室の後ろのドアを開ける。黒板の真ん中に、ちんまりと紙が貼ってあった。あかりはできるだけ平生を装って黒板を見に行った。浮かれているのをクラスメイトに見抜かれるのは恥ずかしい。舞い上がる心を押さえようとして、必要以上に体のあちこちに力が入る。挙動不審に見えたらどうしよう。

 座席は出席番号で書かれていた。少し早く来たせいか、席はまばらにしか埋まっていない。あかりの席の周りも、まだ誰も座っていなかった。さすがにのぞみや莉子の出席番号までは覚えていないから、二人の席がどこなのかわからない。あかりは仕方なくひとりで席に着いた。

 ひとり、またひとりと席が埋まっていく。教室の左後ろで男子たちが騒いでいる。どうやら仲のいい人たちで席が固まっていたらしい。いいなあ、とあかりは思った。友達の隣で授業を受けることが出来たら素敵だ。わからなかったところをひそひそ聞きあったり、先生の口癖や後頭部のテカリをこっそり笑いあったりしたら、きっと楽しいだろう。

 教室の右前で、また喜びの声が上がった。偶然が続くなあ、と思ってから、はたと考えた。偶然ではなく、必然だったらどうだろう。くじ引きはただのポーズで、貼りだされた席はあらかじめ先生が決めたものだったら?

 ない話ではなかった。そういえば、入学してすぐにあった面談で、仲良くしているクラスメイトを藤堂先生に尋ねられた覚えがある。

 また、右後ろで女子たちの歓声が聞こえた。疑念は確信に変わりつつあった。たぶん、のぞみも莉子も近くの席だ。

 時計の針の進みが、やけに遅く感じる。現在時刻は八時十二分。二人はいつも始業チャイムぎりぎりで登校してくるから、まだ来ないだろう。

 亀の歩みのような秒針の動きを眺めていると、誰かが隣の席の椅子を引いた。顔を上げると莉子がいた。

「あかり、おはよう」

 やっぱり、とあかりは思った。

「奇遇だね、隣なんて。ツイてる」

 莉子はカバンの中身を机に詰めながら言った。

「マキちゃんも一緒だといいね」

「さすがにそれは偶然が過ぎるでしょ」

 莉子はまだ、この席替えが先生によって仕組まれたものだということに気づいていないらしい。それともこんなふうに勘繰っているのはあかりだけで、本当にただのくじで偶然仲のいい人たちが集まっているだけなのだろうか。

 空いていた前の席に、人影が現れる。

「おはよう。わあ、二人とも席が近いんだね。よかったあ」

 のぞみがふわりと笑った。やはり間違いない。この席替え、先生はあらかじめこの座席を用意していた。

 浮かれていた気持ちがしぼんでいく。まどろっこしいことをするんだな、とあかりは思った。先生が勝手に決めた席を一方的にあてがわれたとしても、誰も文句は言わないのに。それに、この席順なら生徒が勝手に決めても似たようなものができただろう。きっとこれは、藤堂先生の配慮だ。ひとりぼっちのみじめな子が生まれないように。

 先生は正しい。でも、あかりは嫌だった。細やかな配慮も、透けて見えればとたんに厭らしくなる。ではどうすればよかったのだろうか。いくら考えても、あかりにはわからなかった。

 大きく開いた窓から五月のさわやかな風が吹き抜けて、もやもやした思考を押し流していくような気がした。チャイムが鳴って、藤堂先生が入ってくる。

「お、みんなちゃんと新しい席に着いてるな。黒板が見えんとか、不便があったら俺に言ってくれよ」

 先生は学級日誌を教卓に置いて、朝のホームルームを始めた。先生が大切に秩序を守る教室の中で、今日もいつもと変わらない一日が始まる。

 

「のぞみ、早くしないと置いていくよ」

 莉子が教室のドアのところで叫んだ。二限目は物理基礎で、遠くの教室に移動しなくてはならない。たった十分しかない休憩、時間は迫ってきている。

「待って、教科書が見つからないの」

 のぞみは机の奥をごそごそとやっている。あまり焦っているように見えないのは、彼女の持つ雰囲気のせいだろうか。

「ねえあかり、遅れちゃうから先に行こう」

「え、でも……」

 こういうとき、どうしていいのかわからなくて本当に困る。のぞみを置いていくのはかわいそうだが、莉子の機嫌を損ねたくもない。できるだけ中立でいたい。

 あかりが立っている横のドアから、祐が出ていった。のぞみが祐を好きだと言っていたのを思い出す。

 そういえば、彼もよくひとりでいるところを見かける。いつでも一人というわけではなくて、悟と一緒にいるところもよく見るのだが、誰とも一線を引いて付き合っているような感じがする。祐は不思議な人だ。勉強がよくできて、人付き合いも困らない程度にそこそこで、特別目立つようなキャラクターでもないのにクラスの中で存在感がある。

 勉強ができてもやっかまれたりしないのは、彼が他の追随を許さないくらい超越しているからだろう。少しも顔色を変えずに一位を取り続ける祐は、この教室の中でひとりだけ神様のように浮いている。

 のぞみは祐を見ているだけでいいのだと言った。しばらく経っても、あかりにはその意味がわからなかった。好きなら話しかけたいと思う。一緒にいたいと思う。それが普通だ。

「ごめん、お待たせ」

 のぞみが小走りに出てくる。

「もう、遅れそうだから走るよ」

 莉子はローファーのかかかとをコツコツ響かせながら走り出した。あかりも遅れないように後に続く。少し離れた先に、祐の背中が見えた。

 物理教室は埃っぽいにおいがする。最後に使われたのがいつなのかもわからないような実験器具が並ぶ奥に、もう何年も使われてなさそうなストーブが置いてある。まるでここだけ時間が止まってしまったようだ。

 カーテンがひるがえって、黒い机にちらちらと光を落とす。座席は自由で、誰とどこに座ってもいいことになっている。二人掛けの席の、あかりの隣は誰もいない。それでも誰か来るかもしれないと思って、右側ひとり分のスペースに荷物を寄せて座っていた。

 通路を挟んで隣の机には、のぞみと莉子が並んで座っている。体の左側に誰かの体温を感じられないのが、少しだけ寂しかった。

 先生が等加速度直線運動の説明をしている。穏やかな声で、まだ午前中だというのに一番前の席の子が船を漕いでいる。この先生の授業は一部の界隈で「子守歌」と呼ばれているらしい。それを初めて聞いたとき、言い得て妙だとあかりは思った。

 先生は何度も同じ説明を繰り返す。たぶんクラスの全員が理解するまで次には進まないのだろう。真横の席でのぞみと莉子がお互いのノートを覗きあってああだこうだと話している。のぞみはまだ理解できていないらしい。彼女は文系科目は得意だが、理系はからきしだった。

 いいなあ、と心の中でつぶやく。座席をどうするか訊かれたとき、「二人で座って」と言ったのは自分なのに。ときどき、気を遣われているのをはっきりと感じることがある。幼馴染の二人の間に入ろうとしているのだから仕方のないことだが、あかりを受け入れようとする優しさの中に遠慮を見つけてしまうと、それ以上踏み込めなくなる。

 空気を読むのはあまり得意ではない。雰囲気は察せるし、相手の考えていることもなんとなくわかる。今あたしに傍にいてほしくないんだろうな、とか。でも、あからさまにその場を離れるとそれはそれで相手の機嫌を損ねてしまう。なんとなく察せたところで、相手が本当に欲しているものは結局わからないのだ。

 あの二人が、あかりの知らない意味を含んだ目線でやり取りする瞬間が、すごく嫌いだ。あれを見ると、同じ空間にいるのに違う世界の住人になったような気がする。

 のぞみと莉子とあかりは、まだ二人と一人だ。のぞみたちは受け入れたくて、あかりも受け入れられたい。そこまではっきりわかっているのに、どうすれば自分たちがひとつになれるのかということだけがわからなかった。

 きちんとクラスに居場所ができて、これ以上悩むことなど何もないと思っていた。けれど人間の悩みは尽きることなく、どんどん贅沢になっていくらしい。友達がいるのに、いや、いるからこそ寂しい。

 一番前の席で、千夏が一生懸命ノートを取っている。彼女の隣も空いていた。そういえば、千夏が誰かの一緒にいるところはあまり見たことがない。

 あの子はいつでも、がりがりごりごり勉強している。声をかければ普通に会話はするけれど、あまり無駄なことは言わない。勉強以外のことにまるで興味がなさそうで、それが彼女を近づきがたい人にしている。中学生のころのあかりによく似ていた。でも、千夏はひとりでもあまり寂しくなさそうだった。

 淋しいな。

 今のあかりは寂しいけれど、千夏は淋しい。

 先生が次回の小テストの範囲を説明している。時計を見上げたら、授業が終わるまであと五分になっていた。試験範囲をメモして、ノートを閉じる。右端に教科書類をまとめて重ねると、ノートで隠れていた黒い机に誰かが書いた公式を見つけた。シャーペンで書かれたそれは、よく目を凝らさないとわからないが時折鈍く光っている。

 いつからここにあるのだろう。もしかして、何年も何十年も気づかれないまま残っているのかもしれない。そう思うと、消してしまうのが忍びなかった。

『寂しい、淋しい』

 公式の隣に、あかりは書き足した。

 いつか、誰かが見つけてくれたらいい。あたしたちのさびしさごと、ぜんぶ。

 あかりは目線だけ動かしてのぞみと莉子を見た。この授業が終われば、二人と一人はまた引っ付いて、つぎはぎだらけの三人になる。あかりはまだ、二人にとってお客様だ。本当の意味で三人になるためには、二人にとって必要とされる存在にならなくてはいけない。せめてどちらかひとりにでも必要とされれば、あかりはここを居場所にしていられる。いつかはきっと、三人になれる。

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