空蝉

20

 家に帰って部屋に入るなり、千夏はベッドに倒れこんだ。立ちっぱなしで働いていたわけでもないのに、足の裏からじわじわと痺れるような開放感が上がってくる。

「疲れた……」

 気がついたら、声に出ていた。真っ白な天井を見つめていると、この一週間で詰め込まれたものが体の中から溶け出していくような気がした。

 入学してから今日まで、「高校生活」を叩き込むように毎日オリエンテーションが続いた。予習の仕方に始まり、復習の頻度、必要最低限の勉強時間など、とにかく細かく教えられる。

 先生たちの言葉は麻薬のようだ。勉強できるようになりたい生徒たちに、言葉巧みにささやきかける。過去の生徒の例を持ち出して、「君もこんなふうにすればきっと成功するよ」だなんて、ふざけるのも大概にしてほしい。それがうまくいったのは、その人が成功する素質を持っていたからだ。

 世の中はあまり平等ではない。生まれながらにしてすべてを持っているような人もいれば、何もかもが普通で、何をやっても一番になれないような人間もいる。千夏は後者だった。いつも近くで天才を見てきた千夏は、それを痛いほど知っていた。

 オリエンテーションの最後、発表者を名乗り出たのは、成功例をなぞらせようとする先生たちへのちょっとした意趣返しのつもりだった。

 あんたたちの「理想の生徒」にはなってやらない。わたしはわたしの決めた道を行く。

 誰よりも勉強して、この学校で一番になる。

 教壇に立って、クラス全員の前で宣誓した。言ってしまったからにはもう、後には引けない。自分を追い込んでいく自分、というのに心臓がひりひりした。痛みにも似たその感覚が、気持ちよくてくせになりそうだった。

 

 机の上で、スマートフォンが鳴る。千夏はブレザーを脱ぎながら画面を見た。表示されているのは『小野寺沙世おのでらさよ』の文字。受話器のマークをスライドして、応答する。

『もしもし、千夏?』

 聞きなれたのより、少しだけ高い声がする。

「久しぶり」

『わあ、久しぶり。なんかこうして電話してるの、不思議な感じがするね』

「うん」

 最後に沙世と会ったのは先週末だったが、それまで毎日のように顔を合わせていた二人にとって、この電話は久しぶりだった。

『西高は今日までオリエンテーション週間だったんでしょ。友達とかできた?』

「そんな、環境に順応するだけでせいいっぱいだよ。知らない人たちと慣れない場所で過ごすのって、思った以上に消耗するんだね。くたくたで、今ベッドにダイブしたとこ」

『あ、じゃあ悪いところに電話しちゃったかな』

「そうかもね」

 千夏がそっけない声で言うと、ええっと沙世が大げさに驚く。

『そんなふうに言われたらわたし、千夏に電話かけづらくなっちゃうじゃん!』

 沙世の芝居がかったセリフに応戦する気力もない千夏は、面倒くさくなってため息をついた。

「あんたはそんなこと関係なしにかけてくるでしょ」

『ばれてた?』

 茶目っ気たっぷりに沙世が笑う。彼女の耳をくすぐるような声が、誰も入り込む余地のない二人だけの世界の輪を閉じる。

 西日の入るこの部屋は、四月というのに暖かいを通り越して若干暑い。千夏は肩と耳で端末を挟みながら窓を開けた。乾いた風が入ってきて、べたついた頬をなでていく。

「いいよ、沙世もわたしも、話し始めたら気が済むまでやめられないでしょ」

 電話の向こうで、沙世が微笑む気配がした。

『さっすが千夏、わかってるよね。十二年間連れ添っただけのことはあるね』

「夫婦になった覚えはないよ」

 軽妙なやり取りをしながら、千夏はスカートを脱いだ。シャツとハーフパンツだけの格好で、ベッドに腰掛ける。

「で、そっちはどうなの。北高は」

『楽しくやってるよ。それなりに話せる友達もできたし。県下一の進学校を謳ってるだけあって、みんなすごく勉強できるから授業についていくのが大変そうだけど、それだけにやりがいもあるのよね』

 沙世の声はいきいきしている。小学生の頃から成績優秀で、中学時代は「無敵の小野寺」という二つ名で学年首位に君臨し続けた彼女だ。人当たりも良くて、誰にでも優しい優等生だった。沙世にとっては、北高こそが輝ける場所なのだろう。そういう沙世が、千夏は心底羨ましい。

『……千夏、聞いてる?』

 もしもーし、と沙世が大きな声を出す。

「ああ、ごめん」

『それより千夏のことだよ。わたし心配してるんだから。千夏はほら、ちょっといろいろあったしさ……』

 沙世が声を落として言った。「いろいろ」というのは、中学であったことを指しているのだろう。沙世とは幼馴染でずっと縁があったが、親友と呼べるような関係になったのはあれがあってからだと思う。沙世が真っ暗だったこの部屋から千夏を救い出して以来、二人はぴったりと寄り添うように過ごしてきた。お互いには、お互いしかいなかった。

「大丈夫だよ。心配しないで。わたしは上手くやってるよ」

 千夏はやわらかい声で笑ってみせた。それならいいけど、と言いつつ、沙世はまだ何か言いたげだ。

『北高、すっごく楽しいよ。千夏も一緒ならもっとよかったのに』

「無理だよ。わたし、沙世みたいに勉強できないもん。北高の授業のペースに置いて行かれる」

『千夏なら大丈夫でしょ』

 のんきなことを言ってくれる。千夏が腹の中で何を考えているか、沙世は知らないからそんなことが言えるのだろう。

『千夏、ほんとにちゃんと友達できてる?』

 なおもしつこく訊いてくる沙世にどう答えようか考えていると、ひとりの男子が頭の中に浮かんできた。

「友達じゃないけど、気になる人はいるかな」

『どんな人? かっこいいとか?』

「変わり者、かな」

『なあんだ、恋バナになるかと思ってちょっと期待したのに。そういえば千夏って、ヘンな人好きだよね』

「ヘンな人が好きなんじゃなくて、好きになった人がいつもちょっと変わってるの」

『同じことでしょ』

「違うよ。それに、あの人を好きとかいうわけじゃないし」

 猫背気味に座って、みんなが熱心に先生の話を聞いている中、彼はずっとつまらなさそうにペンを回していた。その背中が、なぜかとても気になった。自分と同じものを感じたのだ。

 祐が「普通に勉強して、普通に卒業できたらそれでいい」と言ったとき、千夏は彼が先生たちの言う「理想の生徒」に毒されていない仲間だと確信した。だから、千夏は祐に声をかけた。おそらくまだ何も気づいていないであろう彼にこの違和感を伝えたかった。

「沙世は部活続けるの?」

 千夏はさらっと話題を変えた。これ以上祐について突っ込んで訊かれると面倒だし、彼をどう思っているのかなんて訊かれてもよくわからない。ただ、ちょっと気になった。それだけのことだ。

『うん、今日吹奏楽部に入部届出してきたよ。北高の吹部は強いからね。辞めちゃうのはもったいない気がして』

「頑張るね」

『千夏は? 千夏もサックス続けるよね?』

 信じて疑わない口調に、千夏はちょっと口ごもる。

「えー、どうしようかな」

 口ではそう言いつつも、千夏の心は決まっていた。この高校生活は、勉強だけに身を捧げる。

 ほかのことに気を取られている暇はない。千夏は一度でいいから一番になってみたかった。それは、沙世が隣にいてはできないことだ。だから千夏は沙世とは違う道を選んだ。

 おそらく、千夏の学力でも頑張れば北高に合格したと思う。けれど、千夏はこの出来すぎた幼馴染と、少し距離を置いてみたかった。


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