19
エアコンの切られた放課後の教室は、じっとしていても汗がにじむ。これから世界史の追試があるせいで、クラスメイトがごっそり試験会場に移動してしまった。教室は閑散として、いつもの騒がしさがない。
のぞみも莉子も追試に行ってしまって、あかりはひとりだった。教科書をわざとゆっくりカバンに詰める。一冊ずつ、丁寧に。そうしているうちにどちらか一人でも帰ってこないかと、ほんの少しだけ期待して。
ひとりで待っているときの、所在なさが嫌いだ。ひとりぼっちだと思われたくない。心細くて耳鳴りがする。その耳障りな高い音を聴きたくないから、あかりは探し物をするふりをして何度も机を覗いたり、ロッカーを見に行ったりした。そうしているうちに、教室は誰もいなくなっていた。
バカみたいだ。
そう思うのに、誰もいなくなった教室でありもしない探し物をやめられない。汗が額から頬を伝って流れる。手の甲で触れた頬はべたついていた。いくら待っていても、二人は戻ってこない。今日は帰ってしまおうと思った。二人がいなければ、部活に行く気も起こらない。
カバンを持って教室のドアを開けると、千夏と鉢合わせになった。ちょうどドアを開けようとしていたところだったのか、驚いたような顔をしている。彼女の手には、学級日誌があった。
「ねえ若宮さん、日誌つけるの終わったら一緒に帰ろう」
「いいけど、矢島さんは帰るところじゃなかったの」
「気が変わったの。ひとりで帰るのも嫌だったし」
ふうん、と言って千夏は自分の席で日誌を開いた。今日の時間割を書いて、その隣に教科担当の先生の名前を並べる。欠席者の欄に、及川祐と書き込んだ。
「及川くん、いつから来てないんだっけ」
あかりの問いかけに、千夏は答えなかった。彼女もわからないのかもしれない。
あかりは千夏の手元から視線を外して、祐の席に目をやった。期末試験が終わってすぐに行われた席替えで、祐の席は教室の隅に追いやられた。高校生を相手に二度も子供だましな方法は通用しないと思ったのか、今回は先生が勝手に組んだようだ。
藤堂先生には、ちょっと失望した。どんな意図があって祐の席をあそこにしたのか知らないが、あんまりだ。
祐のいない教室は、何かを決定的に喪いながらも変わりなく機能していた。最初の数日こそ彼がいないのを意識していたが、しばらくしたらそれにも慣れてしまった。一年二組は彼を忘れて時を刻んでいく。忘れられてしまったら、存在しなかったのと同じだ。
「矢島さん、今日は部活ないの?」
唐突に、千夏が口を開いた。彼女から話を始めるのは珍しいことで、あかりは少し面食らった。
「いや、今日はさぼり。みんな追試でいないから、あたしだけ行ってもねって感じで」
「みんなって?」
「マキちゃんとか、莉子さんとかだよ」
みんなと言うには限定的だと自分でも思ったが、あかりにとって「みんな」とはこの二人のことだった。
あかりの話を聞きながら、千夏は日誌の空欄を埋めていく。
「へえ。部活ってそんなもんなんだね。わたし高校では部活してないから、どんなノリでやってるのかなと思って」
顔を上げずに言う。今日の千夏はよくしゃべる。あかりはずっと胸にわだかまっていたことを聞いてみたくなった。
「若宮さんはさ、それで高校楽しいの? 部活もせず、友達も作らず、がりがり勉強ばっかでさ」
かわいそうだ。
もう少しで喉から出かかった言葉を飲み込む。これはさすがに失礼だと思った。
「わたしはこれでいいと思ってるよ。友達は、高校にはいないかもしれないけど中学のときの友達がいるし、高校では全力で勉強しようって決めてるから、部活してなくても学校生活に意義は見出してるつもり」
完全に言い切る千夏は、かっこよかった。ひとりぼっちでみじめな、かわいそうな子のはずなのに、逆境に少しも動じていない。驚くほどストイックで潔くて、憧れると同時にやはりかわいそうだと思った。自分がかわいそうなことに気づけないのが、かわいそうだ。でも、それは言わない。
「いいね、自分自身がしっかりあって。あたしなんか、いろんなことにとらわれてばっかり。人間関係とか、周りの目が気になって若宮さんみたいに自分を貫けないよ。あたし、中学ではあんまり友達がいなかったから、高校では友達作ろうと思って頑張ってたんだけどさ、友達を続けるのもひと苦労なんだね。ひとりのときには気づかなかったよ。最近はどうやったら一緒にいられるか、いつも考えてる」
自虐的に笑って見せる。千夏が顔を上げた。今日初めて、彼女の目を見る。
「それって、かわいそうだね」
「え?」
千夏の言っている意味が、わからなかった。
あたしが、かわいそう?
千夏は日誌を閉じて、体ごとあかりの方を向いた。
「友達って、そんなふうに追いすがるものじゃないと思う。たぶん、一緒にいたいと思う人のことだよ。どうやったら一緒にいられるか考えなきゃ一緒にいられない相手なら、それは矢島さんの居場所じゃないよ、きっと。そうやって、神経すり減らしながら友達ごっこをやってる矢島さんは、かわいそうだと思う」
千夏の瞳から目が離せなかった。瞬きもせずに、彼女の双眸を焦がすくらいじっと見つめた。鼻の奥がつんとする。気がつけば、だばだばと熱い涙を流していた。どんなにみじめだと思った日でも涙は出なかったのに、千夏のたった一言にあかりは泣いた。トランプタワーのどこか一枚を抜き取ったように、自分を支えていたものが崩れ去っていく。
「矢島さん、大丈夫?」
いきなり泣き出したあかりに、千夏が慌てて顔を覗き込む。
「そっか、かわいそうか」
あかりは顔を上げた。千夏に笑顔を向けようとしたが、泣いているせいで上手くできない。
「笑わなくていいよ」
あかりのゆがんだ笑顔を見て、千夏が言った。
「ごめん、なんかわたし、無遠慮なこと言ったみたい」
「ううん」
あかりは首を振った。
「若宮さんが言ってくれてよかった。なんかね、すごく悲しくて残念で悔しいのに、ちょっと嬉しいの」
嗚咽するあかりの背中を、千夏がおずおずとさする。不慣れな感じか彼女らしかった。
「帰ろうか」
千夏の声は、優しかった。
「うん、帰ろう」
あかりはなんとか涙を止めて、まだ潤んでいる瞳を千夏に向けた。笑顔は作れないが、最近で一番穏やかな顔ができたと思う。
校門をくぐって、坂道を下る。いつも部活で遅くなるから、こんなに明るい時間に家に帰っているのが不思議だ。野球部がランニングをする掛け声が、遠くで聞こえた。
並んで歩いているが、千夏はしゃべらない。さっきはあれほど饒舌だったのに、とあかりは思う。ローファーのかかとが地面を鳴らす音を聴きながら、あかりも黙って歩いた。
千夏との沈黙は、嫌ではなかった。のぞみや莉子といるときは、言葉のない時間が怖い。何か話さなければならない気がして、いつも必死に話題を探している。でも、今の千夏にはそれを感じない。
足元に目を落とす。千夏のローファーが、みんなが履いている真っ黒のではなくて少し茶色がかっていることを、あかりは今日まで知らなかった。
「そのローファー、おしゃれな色だね」
「ジャマイカっていう色らしいよ。買ったときの箱に書いてあった」
靴が見えやすいようにと、千夏が足を高く上げる。スカートのプリーツが広がるのを見て、あかりは自分のことでもないのに恥ずかしくなった。きっと誰も見ていないだろうが、千夏はもう少し人目を気にした方がいい。行儀や振舞いにうるさいうちの父が見たらお説教が始まるだろうと、あかりは思った。
「そんなに足上げたら、スカートの中見えちゃうよ」
「気にしなくても、パンツは見えないよ。ちゃんとハーフパンツ履いてるから」
千夏はさらっと「パンツ」と言った。わざと違う言い方で言ったのに。これはお説教くらいでは済まない。父が見たら卒倒するに違いない。そう考えると、なんだか無性におかしかった。
「ローファー、今の履きつぶしたらその色にしようかな」
うっすら微笑みを浮かべながらあかりは言った。
「そうそうだめになるものでもないでしょ」
「でも、お姉ちゃんはローファーに穴が開いたって言ってたよ」
「どんな履き方したら穴が開くの。革だし、けっこう丈夫だよ?」
「知らないけど、毎日履いてたらボロボロになるでしょ。そしたら若宮さんのと同じ色にするの」
細い歩道のすぐ横を車が通り過ぎて、二人のスカートを揺らす。
千夏と歩いているのは、思いのほか楽しかった。のぞみと莉子がいるところがあかりの居場所なのに、千夏の隣ではちゃんと息ができる。それは、かなりショックな発見だった。
「どうかした?」
急に立ち止ったあかりを、千夏が振り返る。
――それって人間も同じじゃないかなと思ったのよね。
千夏の顔を見た瞬間、電話で聞いた姉の声がよみがえった。
「あたし、間違ってたかもしれない。自分の木だと思ってしがみついてたのは、本当はコンクリートの壁だったのかも」
千夏は怪訝な顔をしている。あかりも、わけのわからないことを言っている自覚はあった。
「前にお姉ちゃんが教えてくれたの。蝉は、ちゃんと自分の木を見つけないと羽化できないんだって。それは人間も同じで、自然でいられる場所じゃなきゃあたしはずっと飛べないままだって」
「……それは、岡野さんや槙さんとはもう一緒にいたくないってこと?」
混乱したあかりの言葉を、千夏が正確にほどいていく。正しすぎて、千夏の言葉が割れたガラスの破片のように心に突き刺さる。けれど、もう目は逸らせなかった。
「あたしにとって、あそこは居場所じゃないってこと」
立ち止ったまま、千夏とあかりは互いの顔を見つめあっていた。時折、車が横を走り抜けていく。夕暮れの気配がだんだん濃くなる。
「あたしね、あの二人にたくさん嘘をついて、隠してることもいっぱいあるの。そんなふうにしがみついてなきゃ飛べない場所は、飛ぶのに適してないってことでしょ。少なくとも、あたしの木じゃない。あんなに執着しておいてすごく勝手だけど、若宮さんと歩いててそう思ったの」
「じゃあ、わたしが矢島さんの木だっていう確証はあるの? 今までほとんど関わりもなかったわたしのことなんて、なんにも知らないでしょ」
千夏は意地悪を言っているわけではない。あかりの言うことが支離滅裂なのだ。あかりはもう、自分でも何を言っているのかわからなかった。さっきから感情が動きすぎて、言葉が出るスピードに頭がついていかない。
「ぜんぜん知らない。わからないけど、あたしは若宮さんのことをずっと淋しい人だと思って見てきた。ひとりで過ごしてる若宮さんを見て、かわいそうだと思ってた。本当にかわいそうなのは、あたしなのに」
「……なに、言ってるの」
千夏の表情が険しくなる。下校中の生徒が遠巻きに自分たちの様子を眺めているのを、気づかないふりでやり過ごす。
「友達になってよ、千夏ちゃん」
あかりは千夏の右手を取って言った。
「わたしは、友達とかほしいと思ってないから」
「いるとかいらないとかいうものじゃないでしょ、友達って。一緒にいたいと思う人のことなんでしょ」
両手で千夏の手を優しく握る。
「ねえ、友達になってよ」
千夏の瞳を覗き込むと、彼女はふっと口の端を持ち上げた。
「友達の始め方って、こんな感じだったっけ」
握った両手に、千夏の左手が添えられる。
「こんな言い方じゃ子どもっぽいと思うけど、あたしはこのやり方しか知らないから」
「矢島さんって、思ってたより面白い人なんだね」
肯定と取るべきか否定と取るべきか、千夏ははっきりとした答えを言わなかった。けれど、笑っているからこれでいいのかもしれない。
「帰ろう、千夏ちゃん」
あかりは千夏の手を繋いだまま歩き出した。
「手を繋ぎっぱなしはちょっと恥ずかしい。ほら、人目もあることだし」
「人前で平気で『パンツ』とか言っちゃう人が何言ってるの」
千夏の手を引いたまま、橋にさしかかる。
夕日に染まった明るい色の川が、新しく手を繋いだあかりを祝福するように光っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます