11

 ずいぶん登ってきた気がする。忘れたつもりでいた疲れが積み重なって、足取りは重くなっていた。太腿は痛くて足が上がらないし、膝もがくがくしている。くるぶしから下はほとんど感覚がなくて、足全体に分厚い靴下を履いているような感じだ。本当の足より一回り離れたところが地面に付いているような気がする。

 いつの間にか、会話はなくなっていた。歩き始めたころは無言になるのが怖かったのに、今は何か話さなければいけないという気さえ起こらない。自分たちの足音だけが聴こえて、それがなんとも心地よかった。

「あれ、気象レーダーじゃない?」

 莉子の弾んだ声に顔を上げると、少し上に白くて大きな球体があった。

「やったあ、もうちょっとで山頂だあ」

 あかりは間延びした声で言った。

「ああ、疲れたあ」

「もう、マキちゃんってば。それ言わないようにしてたのに」

「え、そうなの?」

 のぞみが素っ頓狂な声を上げた。

「まあいいじゃん、もうちょっとで着くんだから」

 莉子がおおらかに笑う。終わりが見えないまま登り続けるのはつらいけれど、ゴールが見えてしまえばモチベーションも上がってくる。あかりはにわかに元気が出てきた。現金なものだ。さっきまで葬式のように黙り込んで歩いていて、表情筋を動かすのさえ億劫だったのに、わけもなく頬が緩んでしまう。こころなしか、体も軽くなったようだ。

 段差の大きい階段状の道が続く。もう少しだと思うと顔だけでなく気も緩みそうだったが、転ばないようにと慎重に歩いた。昨夜の電話でひかりが「ケガなんかしたら下山のときに悲惨だよ」と言っていたのを思い出したのだ。

 最後の数段、先の登り切った莉子が手を差し伸べて引っ張り上げてくれた。目の前に手のひらが現れたとき、あかりはちょっと泣きたくなった。こんなふうに誰かに優しくしてもらうのは、とても久しぶりのことだった。

「ありがとう」とあかりが言うと、莉子はいつものクールな表情にさわやかな笑みを浮かべた。あかりも真似してのぞみに手を差し出す。彼女の細い手首を掴んだとき、ようやく友達ができたのだという実感がわいてきた。それまでは誰かと一緒に行動している自分がどこか夢のようだったが、のぞみの手の温かさが現実であることを教えてくれた。

 山頂からの景色はすごかった。町が一望できる。西高も見えたし、母校の中学校も、家があるところもわかった。

「人が豆粒みたい」

「……ほんとにね」

 のぞみのつぶやきに、あかりはやっとのことでそれだけ返した。胸が詰まって、それ以外に何も言えなかった。

 のぞみと莉子と、三人でここまで登ってきたのだ。車やエレベーターのような人工物で連れてこられたのでは、こうはいかない。自分ひとりで登っても、ここまでの感動はなかったはずだ。三人で、自分たちの足で登ったからいいのだ。

 生まれ変わってよかったと、心の底から思った。分厚い眼鏡を捨てて、くるくるした髪をさらさらにして。地味でひとりぼっちの矢島あかりはキラキラ輝く女子高生に生まれ変わった。本当に、よかった。

「あかりん、泣いてる?」

「え?」

 のぞみに訊かれて頬に触れてみると、たしかに濡れていた。

「あはは。いやだ、なんでだろう。きれいすぎて感動しちゃったのかな」

 慌てて涙を拭う。莉子がそっとあかりの肩に手を置いた。

「三人で写真撮ろう」

 あかりは震える口の端を引っ張って、笑顔をつくった。こんなに嬉しいのだから、泣いているのはもったいない。

「撮るよー」

 莉子がスマートフォンを空にかざす。内カメラの画面に、絶景と仲良く並んだ三人が映し出される。太陽の光が眩しくて、あかりは目を細めた。今、最高に青春している。

 莉子がシャッターを切ると、なぜか連写が始まった。予想外のことにみんなで笑い転げる。カシャカシャと切られ続けるシャッターをようやく止めて撮れた写真を見てみると、三人がげらげら笑うところがコマ送りのように収められていた。

「はー、笑いすぎて死んじゃうかと思った」

 あかりは肩で息をしながら言った。

「あ、あかりこのとき白目剥いてる」

「えっ、いやだ消してよ」

「だーめ、面白いから永久保存」

 莉子の手からスマートフォンを奪おうとしたが、背の高い彼女が手を高く上げるともう太刀打ちできない。変顔写真が残ってしまう。

 それでもいいかなとあかりは思った。恥ずかしくはあるが、この写真が残っている限り自分たちの楽しかった思い出は消えない。三人はいつまでも友達でいられる。

 

 広場に赤いジャージの集団が整列している。一番前では校長が講話をぶっている。かなり長くなってきているのに、誰一人として身じろぎすることなく聞いている。聞き入っている、と言う表現の方が正しいかもしれない。私語をする人など、もちろんいない。こういう光景を見ると、ここが中学校とはまったく別の世界だということを実感する。

 学校の長い歴史と今日の良き日を讃えて校長の話は終わり、生徒歌を歌う流れになった。

「みなさん大きな輪をつくってください」

 生徒会の先輩が、拡声器で叫んでいる。他にも何か言っているようだが、音割れがひどくて何を言っているのかよくわからない。そのうち彼女はあきらめたようで、拡声器なしで叫び始めた。

「肩を組んでください。早く、隣の人にこだわらないで、近くにいる人と組んでください。昼食の時間がなくなるので急いでください」

 大変そうだな、とあかりは思った。生徒会に入っていた去年までは、あかりもあんなふうに前で指示を出していたのだ。叫ぶ勇気はなかったから、もっぱらマイク越しにしか声を発さなかったのだけれど。

 出席番号順に並んでいたから、のぞみはともかく莉子の近くに行くのは難しそうだ。三人そろっていられないのなら、のぞみと二人で並ぶのも気が引ける。生徒会も「近くの人」と言っているし、ここはおとなしく従っておくべきか。

 あかりは後ろにいた千夏に「肩、組んでもいい?」と尋ねた。千夏は小さくうなずいた。

 円はなかなか完成しない。生徒会の人がどれだけ叫んでも、みんな肩を組む人は選んでいるようだ。いつまでたっても始まらないのを見て、あかりは最初から二人のところへ行けばよかったと思った。目線の先ではいつの間にか合流したのぞみと莉子が肩を組んでいる。どうしてあのとき遠慮したりしたのだろう。先に千夏と肩を組んでしまった手前、やっぱり二人のところへ行くとも言えない。いつ見てもひとりでいる千夏を置いていくのは、あまりに薄情というものだ。それに今あかりが動いてしまったら、いつまでたっても歌が始められない。

 ちょっとした混乱と喧騒の中でも、千夏はひとこともしゃべらない。あまりにしんとしているので、あかりは周囲の騒がしさが自分たちと一枚壁を隔てた向こう側にあるような気さえした。照り付ける太陽がチリチリと肌を焼く。空いている手で首筋に触れるとものすごく熱くなっていて、特に冷えているわけでもない手のひらを冷たく感じた。

 ようやく音楽が流れ始めたとき、あかりはほっとした。何を考えているのかわからないが、無言の千夏と肩を組み続けていると、どうにもいたたまれない。おなかの底が小さな針でチクチク刺されるように痛んで、居心地が悪かった。

 スピーカーから音割れしたちゃちな伴奏が流れる。いつも聴くのより半音くらい下がっている気がするのは、テープが古いからだろうか。メロディは昭和初期の演歌のようで、歌詞も青春と愛校心を讃えるようなものだ。肩を組んだ生徒たちが、みんな同じ向きに揺れている。数百人の生徒が一糸乱れぬ動きで同じ歌を歌っているのだ。これが高校となのかと、あかりは思った。いつもより空が近いところで響く歌声は、上手く説明がつかないが感動的だった。

 あかりが気持ちよく揺れていると、急に千夏が口を開いた。

「なんか、宗教みたい」

 彼女のひとことで、熱くなっていたあかりの心は急速に冷やされた。一曲歌い終わって、アンコールがかかっている。あかりは千夏の言葉が気になって、小声で訊き返した。

「どの辺が?」

「この行事のぜんぶが」

 変なの、と千夏がつぶやく。彼女の言っている意味が、あかりにはよくわからなかった。こんなにも美しい集いが、変だなんて。これを純粋に楽しめない千夏が、むしろかわいそうだ。

 生徒歌は何度もアンコールがかかり、ぜんぶで三番まである歌を三回も繰り返した。先生も先輩たちも、この歌が、この高校が大好きらしい。熱気が、痛いほど伝わってくる。引っ張られるように左右に揺られながら、あかりは声の限りに歌った。

 今日はこれまでの人生で一番いい日かもしれない。


 青空の下でお弁当を広げる。のぞみが持ってきたビニールシートに三人で向かい合うように座る。一緒に食べる人がいるのはいいものだとあかりは思った。

 莉子がリュックの中をごそごそと漁っている。しばらくして、ポテトチップスの袋を取り出した。

「じゃーん、のり塩味、献上します」

 恭しく両手に乗せて、のぞみに向かって頭を下げる。

「あ、これ好きなやつ」

「そうそう、のぞみが好きだったなと思って買ってきたの」

 のぞみは莉子にもらったポテトチップスを大事そうに胸に抱えた。その嬉しそうな笑顔に、あかりはほんの少し目を背けたくなった。

 莉子はのぞみの好きなものを知っている。それがかすかに胸に引っかかった。

 当たり前だ。莉子とのぞみは幼馴染なのだから。ついこの間出会ったばかりのあかりには知り得ないことも、あの二人はお互いに知っている。当たり前だ。わかっている。

 ポテトチップスの袋はパンパンに膨れている。気圧が下がると空気が膨張して体積が変わるのだと中学校で習ったけれど本当なんだな。そんなどうでもいいことを考えながら二人の話を聞いていた。こんなにも近くにいるのに、この二人がとても遠くにいるような気がする。

 二人があかりの知らない話で盛り上がっているときや、まだ知らない相手の一面を教えてくれるとき、この痛みは突然やってきてあかりの胸の内を荒らす。頭では、二人の付き合いが長いことを理解している。けれど体がそれを受け入れるのを拒んでいるようで、事実を突きつけられるたびに拒否反応を起こす。

 同じビニールシートの上に座っていても、あかりたちはひとつではなかった。二人と一人の集合体でしかないのだ。ひとりだけ切り離されたような気がして、不安になる。ここはちゃんと自分の居場所で間違いないのだと、誰でもいいから肯定してほしくて、落ち着かない気持ちになるのだ。

 気を紛らわせようと、あかりは二人から視線を外した。あたりを見回してみると、ぱっと千夏の姿が目についた。みんなが騒いでいるところで、本を広げてひとりで座っているというのはなかなか目立つ。こんなところまで来てひとりぼっちだなんて、寂しくないのだろうか。自分だったら耐えきれないと、あかりは思った。いつかの遠足で、一緒にご飯を食べる人が見つからなくて、こっそり人気のない場所を探したことを思い出した。

 声をかけてあげたい。ひとりぼっちの辛さは痛いほど知っていた。けれど、ようやくできた居場所を抜け出すのは、たとえ一瞬でも怖かった。念願叶って友達はできたが、まだ足元は心許ない。ようやくつかんだ居場所なのに、今手を離してしまったら、高校デビューの魔法が解けてしまう。キラキラしている今のあかりは消えて、元の地味でみじめな矢島あかりに戻ってしまう。それだけは、いやだ。

 しばらく見ていると、千夏のそばに寄ってくる影があった。祐だ。彼は千夏に何か言って、小さな箱を渡した。よく見たら羊羹の小箱らしい。遠足と羊羹とは、祐もチョイスが渋い。何か会話している。離れているから声は聞こえないが、千夏は朗らかに笑っていた。

「なんだ、ちゃんと友達いるじゃん」

 あかりがつぶやくと「なんか言った?」と莉子が振り返った。

「ううん、なんでもない」

 あかりは笑顔で返事をする。

「さ、お弁当食べよう! 早くしないと満腹のまま下山しなきゃいけなくなっちゃうよ」

 あかりはわざと明るい声を上げた。勢いよく玉子焼きを口に放り込む。

 千夏はありのままでいても友達ができるのかもしれないが、あかりはそうではない。あかりが友達をつくるためには、せいいっぱいの愛される努力が必要だ。だからあかりは自分に魔法をかけて、「矢島あかり」を演じることにしたのだ。

 

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