第22話 根は白糸に消え

 女神の束の間見せた鮮烈な輝きに別れを告げ、私は昨晩の道を逆に辿っていく。

 戸町より大浦を進めば、昨晩は拝むことのできなかった長崎の街並みが、斜面を這うようにして並ぶ家々が私にその姿を見せる。


「やっぱり長崎の景色も楽しいですね、あにさん」

「ああ。でも、やはり夜の美しさはこの数倍になる。稲佐山からの夜景が推されることも多いが、風を受けながら眺める景色もいいもんだ」


 すり鉢状の長崎の景色を一点で眺めるのであれば、他にも良いところは無数に存在する。

 しかし、それを緩急を以って臨もうと思えば、この路線以上の愉しさを得るのは難しい。


あにさんだと、助手席に誰もいないっていうのがあるんじゃないんですか」

「いや、それよりおしゃべりな奴と一緒というのが大きいかもしれないな」


 いつもに増して饒舌じょうぜつなデミオをたしなめながら、私は長崎の朝の生活へと溶け込んでいく。

 この空気感を味わうのは何年ぶりだろうか。

 少なくとも慌ただしさ、窮屈さは昔に比べて穏やかになった。

 それだけ長崎という街が老いてきたということかもしれない。


「思い出っていうのは極端なものなのかもしれないな。昔はもっとこの道で焦らされた記憶がある」

あにさんはそっちがいいのかもしれませんけど、僕は坂やカーブで目が回りそうですよ」

「まあ、それが長崎だよ」


 デミオに笑いかけているうちに、やがて目的地へとたどり着く。

 時計を見ればまだ八時になったばかりであるのだが、辺りに子供たちの姿はほとんどない。


「昔は……。それこそ二十年ほど昔は、この時間に行きかう子供がたくさんいたように思っていたんだが、それは私が寝坊助だったということかな」


 ぼんやりとデミオに告げながら、外に出て廃屋と向かい合う。

 蔦によって覆われ、人気の失われた木の箱、それが私の生家であった。


 今回の長崎行きの目的は、実家売却のための打合せである。

 父が鬼籍に入って三年、よもや空き家となったこの建物は生気を失ったかのように急速に劣化が進み、しつこく対応を求める連絡が届いていた。

 ただ、残念ながら元手は無く、故に解体費用を相手に持ってもらった上で二束三文での売り出しをすることとなった。

 買い手は既に見つかっているという。

 あとは手続きを進めていき、書類を集めてしまえばこの廃屋は間もなく地上から消え去ってしまう。

 往来の危険は取り除かれ、景観はよくなり、私も長崎市からとやかく言われることがなくなって枕を高くして眠れるというものだ。


あにさん、この時間にあんまり辺りを見回してばかりいると、不審者と間違われますよ」

「ああ、そうだったな。じゃあ、荷物を積んでいくから、少し我慢してくれよ」

「はーい。この前みたいに、後部座席を倒し忘れて立ち往生しないでくださいね」


 苦笑しながら、朽ちかけた我が家に踏み入っていく。

 おそらく、これが最後になるだろう。

 よもや用を成さなくなった鍵を開けて中へ入り、わずかになった荷物を運び出していく。


あにさん、アルバムは分かるんですけど、何ですかそのノートは」

「これは父さんの書き残していたそば粉の分量とその日の天気とかを書いたやつだ」

あにさんと違ってマメだったんですね」


 全てを持ち出すわけにはいかなかったが、厚手の大学ノートをいくつか手にしてしまっている。

 全く、今の散らかり放題の狭い我が家に置く場所などないというのに。


「この箱の中にはな、高校時代に県の文芸コンクールで貰った盾が入ってる。全く、過去の栄光に縋るなんて恥ずかしいんだけどな」

「なら、装備して守備力の足しにしましょう」


 デミオのとぼけた言い草に、思わず笑ってしまった。


「卒業証書、まだ持ち出してなかったんですね」

「ああ。要らないかなと思ってたんだが、履歴書書くときにあった方がいいと思って」

「書く予定があるんですか、あにさん」

「いや、ないと思うんだけどな、多分」


 本当は、大学以外は卒業アルバムで一目瞭然である。

 あえて非効率であることに、私も気づいてはいるのだが、言い訳は必要である。


「で、何ですか、その大きい荷物は」

「これは父さんが店で使っていた木鉢だ。幼稚園の頃ならすっぽり入ることができたんだ、この中に」

「蕎麦屋をやるつもりですか、あにさん」

「いや、そのつもりはないんだけどな」


 デミオは笑いながらも、決して私についた心の贅肉を嘲ろうとはしない。

 全てを積み終わったところで、少しだけ、それこそ木鉢の分だけ沈んだデミオを残してしばらく我が家の中を写真に収めた。

 散らかり放題で見るも無残で目も当てられない、それこそ床は跳ねるほどの柔軟性を備えた中で、私は十分ほど無言を貫いた。


あにさん、行っても大丈夫ですか」


 駐車場に戻ったところでデミオに聞かれ、最後に外観を写真に収める。

 無言でエンジンをかけた私に、

あにさん、走っている間に顔を作っておいてくださいね。話は僕が何でも聞きますから」

穏やかな声をデミオはかけてくれた。


 白糸のバス停を過ぎたところで、窓を開ける。

 深く吐いた溜息は、重い荷物を降ろすと同時に、気配りへの感謝の証であったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る