第二節 天草に日は傾き

第4話 男一人で嘉島しく 海へと向かう遠回り

 曇天というよりも雨天の中で、私はクーラーボックスを一つ載せてデミオと共に浜線バイパスを南へと下っていた。

 居並ぶ車の多さに休日であることを痛感させられ、ハンドルを指でつつきながら手持無沙汰を愉しむ。


あにさん、今日はどこさんいくとです?」

「私がクーラーボックスを担いでいくところなんて、一か所しかないじゃないか」

「ええ、天草あまくさですよね。でもあにさん、いつもは近見ちかみの方から国道五七号線を下るじゃないですか」

「うん。分かりやすい道を使う方がいいからね」

「このまま行くと嘉島町かしままちにしか行けませんよ。酒屋さんにでも寄るんですか」

「いや、嘉島に丸源ラーメンがあるのに最近気づいたから、食べてから行こうと思って」


 私の答えに、デミオが僅かにエンジン音を高める。

 休日の昼前に流れていた穏やかな空気が切り裂かれ、賑やかそうな一家のセダンが私たちを追い抜いていく。


あにさん、それってただ食べたいものを食べに行ってるだけですよね?」

「笑わなくてもいいだろ。動画で知ってから行ってみたいと思ってたんだが、近くになくて諦めてたんだ。それに、今から釣りに行くなら気合の入るものを腹に入れておきたいからな」


 中の瀬橋を越えていよいよ郊外がその本領を発揮する。

 やや水嵩の増した加瀬川は卯月というのにどこか寂しい。


「でもあにさん、満腹になって眠たくなってがりっ、とかは止めて下さいよ。あれ、痛いんですからね」

「あれは悪かった。判断が鈍くなって左耳の下を擦ったのも、そういえば天草に行く途中だったな。大丈夫、そんなには食べないつもりだから」


 そうは言っておきながら、丸源ラーメンで肉そばチャーハン餃子セットをいただいて車に戻ると、何とも満たされた気分になってしまっている。


あにさん、食べ過ぎましたね?」

「いやぁ、ラーメン屋で食べる量を調整するのは難しいね。うん、あの蠱惑的な香りは人間から理性を失わせる。なんと罪深いことだ」

「小難しい話をして誤魔化そうとしてもダメですよ。ほら、ミントガムを噛んでください。珈琲もありますね」

「大丈夫、今日はゆっくり寝てきたから。危なくなったらすぐ休むし」

「約束ですよ、あにさん」


 小雨に身を濡らしながらデミオが再び車道に躍り出る。

 微小な水滴が真玉を成し、集まってはワイパーに掃われる。


「それで、ここからどうやって天草に向かうんです?」

「イオンモールのところから川沿いに。そこを突っ切れば五七号線に合流できる、はず」

「え、その不確かさは何なんですか? もしかして、調べてないんですか?」

「いや、家を出る前に調べてはいるんだが、なにせ初めて通る道だからね。本当に続いてるのかは実際走ってみないと」

「なんだか、楽しそうですね、あにさん」

「分かっちゃうか、そうか。じゃあ、曲がっていこうか」


 左折するのに慣れた道を、右折する瞬間に胸が高鳴る。

 緩やかにギアを上げ、クラッチを踏み込むたびにデミオも良い音を奏でる。


「それにしても前のワゴンさん、いやに右寄りですね」

「そうだな。ちょっと何があるか分からんから、少し間を開けて走ろう」


 その時、急に指示器を出した白い車体はやや左に頭を向けたかと思うと、ひどく歪んだU字を描こうとする。

 テールランプの赤に合わせてブレーキを踏み、それがさらに脇の道へ消えていくのを呆然と見守る。


「何だったんでしょうね、あれ。指示器とUターンに合間がありませんでしたよ」

「車間取ってて正解だったな。なるほど、イオンモールの駐車場にここから入れるんだな、きっと」

「それでもですねえ。そして、前のセダンさんもいやに右寄りですね」

「そうだな。また何があるか分からんから、車間を広めに取っておこう」

あにさん、そんな都合よく天丼のような展開には……」


 その時、急に指示器を出した銀の車体はやや左に頭を振ったかと思うと、僅かに歪んだU字を描こうとする。

 テールランプの赤に合わせてブレーキを踏み、それがさらに脇の道へ消えていくのを呆然と見守る。


「ほら、正解」

「お見逸れしました、あにさん」

「ほう、ここからもイオンモールに入れるのか。やっぱり、走ったことのない道は用心するに越したことはないな」

「そうですね。他の車の動きが見えませんもんね」

「お、この緑川沿いにも田畑が広がるのか。これは夏場に走ると楽しそうだ」


 一度、信号にせき止められてからさらに西へ西へと進んでいく。

 広がる景色は整えられた芝に変わり、濡れ濡れとした草の輝きが空を照らし上げている。


「いいなぁ、こうしたところで日がな一日、寝ころんだり少し歩いたりして過ごせたら堪らないだろうなぁ」

「それで、お巡りさんに通報されるんですね」

「いやいや、そこまで怪しくはない」

「え、あにさんみたいな男が一人でそんなところにいれば、誰だって警戒しますよ。だから僕と一緒に回った方がいいですって」

「まあ、確かに車で見て回るのも好きなんだけどな」


 鼻歌でも歌いだしそうなデミオと共に道を行けば、やがて大通りに突き当たる。

 少し名残惜しさを噛みしめながら、しかし、ちらりと建物の合間から覗く新幹線の高架に私は再び胸の高鳴りを覚えた。

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