第27話 鶴見に国東はありしや

 翌朝、あまりにゆっくりとし過ぎていたために慌ててチェックアウトを済ませた私は、荷物を整理しながらデミオへと乗り込む。

 後部座席に吊るしてある物干しに昨晩洗ったマスクをかけ、一息吐いた。


「この旅は、感染症対策を十分に取り、出演者同士が十分に距離を取ってお送りします」

「なあ、そんな台詞、どこで覚えたんだ」

あにさんがいつもつけてるラジオですよ。ちょっと特別なことしてる気分になりません?」

「なんだか虫唾が走るような気がしてくる。それに、出演者ってどうあがいても距離が取れないんだが」

「僕は距離取らなくても大丈夫ですから」


 他愛もない話をしながら、工事の続く道を行く。

 陥没した箇所が多いというのは、七月の大雨の影響なのだろうか。

 立ち並ぶ木々に見守られながら、相互通行の道で信号待ちを愉しむ。


あにさん、今日はどこに行きましょ」

「熊本に戻っていく予定なんだけど、な。途中でうどんを食いに行く以外は決まってないんだ。のんびり走りながら、気になったとこに立ち寄ろう」


 その時、スマートフォンの揺れが助手席から低い音で響き渡る。

 一度、デミオを脇に寄せてから見ず知らずの番号を取ってみれば、男性の優しげな声が届けられた。


「ああ、お宿のご主人でしたか」

「鶴崎様、お部屋に充電器と歳時記をお忘れでしたが、まだお近くにいらっしゃいますか」


 思わず大きな声を上げてから、御礼を告げて電話を切る。

 私は慌ててギアを入れ、来た道を戻っていく。


「もうあにさん、旅先に置いてきていいのは心付けと恥だけですよ」

「言われなくとも分かってるさ。それにしても、歳時記忘れるとはとんだ失敗だ」

「そんなにいい物なんですか」

「ああ。高くはないが、連句で使えるように四季での分類ではなく、十七の季節に分けてあるやつだからそれなりに珍しい。学生時代にバイト代で買ったものだから、色々と思い出もあるしな」


 昨日目を丸くした細い急勾配を駆け下り志美津旅館へと駆けこむと、ご亭主が既に忘れたもの一式を手にして待ってくださっていた。

 いかにも人のよさそうな笑顔に迎えられた私は、気恥ずかしく頭を掻きながら、何度もお礼の言葉を告げた。


「俳句をなさるんですね」

「ええ、下手の横好きというものですが」

「でしたら、この街は山頭火も立ち寄りましたので、何かいい句が出てくるといいですね。川の音が騒がしいほどのところで……」


 しばし川の流れを前にして話し込み、改めてデミオと共に大分の山道へと戻っていく。


「全く、ここまでされたらもう一度来ないといけなくなったな」

「そうでなくても来るつもりだったんでしょ、あにさん」


 それもそうだなと笑いながら、後ろ髪を引かれつつ山道を進んでいく。

 耳に染みついていた川の音が心地よく、デミオの鼻歌と風の行く音の背景となり、少しだけ目頭が熱くなるようであった。


 川騒ぐ 中や老爺の 独言


 国道二二一号線から県道五二号線を進むのだが、その道は中々に良い具合で蛇行していた。

 枯れに向かう前の草木は命の炎を燃やすように最後の青さを見せ、それが深々と私の心を抉っていく。


あにさん、疲れていませんか? 久しぶりの長距離運転ですし」

「そうだなぁ。どこかで休みが取れたらいいんだが、って、ロープウェイがあるみたいだな、ちょっと寄ってみるか」


 気まぐれに立ち寄ってみると、先に目についたのはロープウェイ乗り場ではなく、九州焼酎館の堂々たる姿であった。

 三角屋根が緑の山野を断ち切るようにしてあり、それは見事に焼酎王国の在り方を象徴していた。


「ちょっと、休んでくる」

あにさん、分かってるとは思いますが飲んだらいけませんよ」

「大丈夫、それより甘い物でも飲んでくるさ」


 デミオに手を振って中に入ると、その圧倒的な品揃えを目の当たりにして悪魔が耳に囁くのだが、それをデミオの言葉の反芻で切り抜ける。

 日田の雪駄などを眺めてから柚子のジュースを買い求め、私はロープウェイに乗った。


 鶴見岳は別府ロープウェイによって繋がっており、山頂からは国東くにさき半島や別府湾を望める活火山である。

 意気揚々と乗り込んでその絶景を求めようとしたのであるが、

「火山ガスのせいで見れなかったんですね、あにさん」

「何だろうな、この現象。大観峰の時といい、何とも運が悪いのかそれとも笑い話になって逆に美味しいと言えるのか」


 山から下りた私はデミオと共に別府方面へと向かいながら、最後の山道を駆け下っていく。

 山頂は遠足の高校生と思われる一団が占拠しており、展望台は白い闇に覆われてとても一望できるものではなかった。

 ただ、学生が多いために気が休まらなかったというところはあるものの、秋晴れの空に向かって真直ぐ顔を向けられるほどには、清々しい気分であった。


「仕方ないから、また一緒に来ような」

「ええ、あにさん。ですから、安全運転で行きましょうね」


 草木の洞穴を抜け、視界が一気に広がる。

 別府の市街を間近に感じながら、その温泉の誘いをかわすようにして私たちは先を急いだ。

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