第26話 湯平に偲ぶ~花ニ嵐ノタトエモアルゾ
「そういえば
「ああ、確かに別府の店も愉しい所なんだが、今回は別件で、な」
やまなみハイウェイを逸れて、いよいよ大分県道五三七号線に入る。
見慣れた青い六角形の看板の下に書かれた「湯平温泉線」という文字が韻を踏んでいるようでどこか楽しい。
「って、
「何だこれ、清閑な草木の佇まいのせいで分からなかったが、これは中々だぞ。悪いが、少し我慢してくれ」
二速に入れられたデミオは唸りを上げる。
それでも堪らずにポンピングブレーキをかけ、やっとのことで速度が落ち着き安らぎを取り戻す。
見知らぬ山中の運転で怖いのはこの瞬間であり、適切なギア選びに四苦八苦せざるを得ない。
「
「ちょっと思った。でも、湯平は山に奥深いそうだから、もう少しだけ行ってみよう。この坂道なら、行きはよいよいとはならんだろう」
互いに叫ぶようにして進むと、次第に看板が湯平の街を指すようになる。
そして、至る所に宿の看板が出るようになって、私達は肩を撫で下ろした。
「
デミオの声に見返すと、確かに名前が合っている。
慌てて引き返し、戻ろうとするのだが、その道は明らかに私道というよりも獣道に近い。
「これはすごい。急なうえに、離合もできないぞ」
「
恐る恐るの忍び足で進んでいくと、やがて川に臨み、砂利の敷き詰められた駐車場に至る。
一つ息を吐いてから、私はデミオを木陰に停めた。
「それじゃあ
「ああ、行ってくる」
丸まるようにしてあるデミオに手を振りながら、私は落ち着いた佇まいの「志美津旅館」さんに荷を下ろした。
夜半、日が沈み私も強かに酔って千鳥足となりながら駐車場に向かうと、デミオは少し慌てた様子でいた。
川の声と深い夜の闇が辺りを包む中で、私はデミオに寄りかかりその冷ややかさに身を任せる。
「大丈夫、カギは持ってないさ。酒が一滴でも入ったら運転できないからな」
「でしたら
「夜道の散歩を楽しんでたんだが、少しばかりこうしたくなってな」
慣れぬ雪駄で歩きづらいのもあったのだろうが、いつもより足が棒になってしまっている。
そのまま旅館に戻ればよかったのだろうが、もう少しこの町の空気を味わいたいという我儘から逃れることはできなかった。
周りに人影はないのだが、それでもマスクを着けたままであるのは、デミオへの感染を予防しているのだろうかと戯れてみてから、遠慮を知らぬ口に任せることにする。
「良い所だよ、本当に。少し坂は急だけど、それすらも旅情だ。石畳を雪駄を鳴らしながら歩くなんて今が二十一世紀だということを忘れさせる」
「
「そりゃ、我慢ができないからな。来ようと思っていたのになかなか来れなくて、やっと来たんだ。もう、今晩は何も遠慮しない」
「そういえば
「ああ、弔い、だな」
山の夜風が一つ吹く。
十月とはいえ、少々骨に染みる思いがした。
「本当はつるや隠宅さんに伺おうと思ってたんだ。漫画で出ていたというのもあるんだが、それ以上に若旦那が何とか湯平に興味を持ってもらって、来てほしいと奮闘されていた。普段は自分の店の『電脳女将』千鶴さんの推しであったり、麻雀の話題を出したりしておどけたふりをしながら、ね」
「でも、弔いって」
「この七月の豪雨で、避難中に一家揃って流されてしまったんだ。人吉の水害ばかりに目が行きがちだけど、この辺りもそれなりに被害が出ている。散策しながら、欄干が壊れた橋や真新しい巨石が川にあったんだが、多分それも名残なんだろうな」
静かな川の声はその夜、どれほどの雄叫びを上げたのだろうか。
一つの落葉すら目につく今となっては、想像もつかない。
「静まり返った旅館の前にも行った。二度、行った。一度は軽くを手を合わせ、もう一度は頭を下げて手を合わせた。建物だけは主がなくとも残るんだ。ただ、それも加速度的に朽ちていくんだけどな」
「そうだったんですね。ですけど
「いや、そうもいかない。コロナの影響を受けた上に被災しながらも営業を続けている旅館は他にもある。亡くなられた若旦那さんが湯平全体を盛り上げようとされていた以上、こうして訪ねることが何よりもの弔いになる。継ぐことになる。だから私は、こうして来たんだ」
闇に浮かぶ旅館の灯りは温かい。
冬ともなれば雪に覆われるのだろうが、それでも温かいのだろう。
『コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウカナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ』
共に、井伏鱒二の漢詩戯訳を諳んじる。
湯に浸かって火照った身体は夜風に冷え、しかし、再び熱を帯びる。
気付けば虫の音が快い。
「それにしても、若旦那が伝えようとしただけあって、本当にこの街はいいんだぞ」
日が沈む前に訊ねた商店は、どんこを商いつつ民芸品なども扱う。
机用の箒を買い求めて出たのだが、それが今の時世にあっては物珍しく、この地に在ってはごく自然であった。
点々と山頭火の陰が見え隠れするのは、この地を訪ねたことが縁になってのことであろう。
その頃はどのような地であったのか。
「分け入っても分け入っても青い山」という句が頭に浮かぶ。
提灯と行燈の織り成す夜道もまた良い。
現実とファンタジーとの境が曖昧となり、まるで私は転生者。
そうした戯れが許されるほど、石畳に馴染んでいる。
「そして、宿が堪らないんだ。洞窟風呂も内装も景色も料理もいいんだが、何より人がいい。酒を四合瓶で頼んだらコップで持ってこられてな。確認したら上手く伝えられてなかったみたいで、その後に追加で四合瓶を頼んだんだ」
「
「一言余計だ。ただ、その時の女将さん、だろうな。その女性の『押し売りしちゃった』の一言がもういけない。これだけで、虜になってしまった。自然が残り、自然な人の在り方が残る」
これが豊かさと言うんだろうな、という言葉は少し明らんだ夜の帳に消えた。
丑満つの頃、目を覚まして宿より外を見る。
名月が一つ輝いていた。
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