第25話 九重に 夢継げる橋 秋浅し

 ミルクロードからやまなみハイウェイに入れば、後は以前に湯布院行きで通った道となるのだが、ひと月違うだけでその景色は全く異なる。

 草木はまだ青々としており、穏やかな森の香りが窓より訪ね来ては鼻腔を満たして去っていく。


「そういえばあにさん、僕が声かけた時のこと、覚えてますか?」

「ああ。あんな怪奇現象、忘れるわけがないからな。今にして思い返すと、確かにあの時の顔はひどかったな」

「でも、七月のあにさんの顔もそれと同じくらい酷かったんですよ」


 静かに流れるカーラジオの音を掻き分けるように、デミオが声を漏らす。

 過ぎ去っていく木陰が仲秋のざわめきを残した。


「そう、だろうな。二年前はあまり自覚もなかったんだが、今年は自覚があった。だからこそ、今日は無理を押してでも出かけようと思ったんだ。体調だけは無理しないようにはするつもりだけどな」

「それならいいんですけど、時には羽を伸ばしてくださいよ。溜め込むのは後部座席の荷物だけにしてください」

「それも悪いと思ってる。できるだけ早いうちに片付けるさ」


 苦笑しながら蛇行する山道に沿って進んでいけば、調子は何一つ変わっていないのだと思い知らされる。

 だからこそ、私は久し振りに訪れた物見遊山の機会を、心の赴くままに楽しむことした。

 大分との県境にある瀬の本レストハウスでは日本酒を買い求め、小腹を満たすべくフランクフルトと牛乳を購う。


あにさん、そのお酒はどうするんですか」

「そうだなあ。部屋でお酒が頼めなかったら、今日の宿で軽くいただこうかな。そうでなかったら家づとにするさ」

「それにしても、すごい名前ですね。ロック用原酒の『原』ですか」

「度数も高いから、なかなかロックな酒だよな」


 デミオの乾いた笑いが九重高原に木霊する。

 濃い青空を高く深い雲が支える


「っと、この牛乳は旨いな。低温殺菌というのもあるんだろうが、草原の安らぎを感じさせる味だ」

「そんなに違うんですか」

「ああ。黒川温泉って書いてあるけど、これを飲んだら行きたくなってくるなぁ」

「今日は宿があるんですから、浮気は駄目ですよ、あにさん」

「分かってるさ、そんな金の余裕もないしな。でも、いつかは行きたいもんだ」


 旅する度に、思い出と行きたい場所が増えていく。

 このようなことを言ってしまえば、また溜め込むなと窘められてしまうのだろうか。

 愉しい想像は、細長いフランクの旨みに溶け、私の胃袋の中へと消えていった。


 県境を一跨ぎして、大分に入る。

 自然には存在しないその空想の産物は、しかし、今の私にとっては非常に太く大きな壁のように感じられ、それを越えた爽快感はデミオの鼻歌となって表れていた。


「なあ、何で北方騎馬民族は万里の長城を越えようとしたんだろうな」

「何ですか、急に。そんなのその向こうにお金があったからじゃないんですか」

「普通に考えればそうなんだろうけどな。ただ、こうして壁があると越えたくなる。壊したくなる。そうした思いが強かったのかもしれない」


 私の言葉に、デミオが声を上げて笑う。

 そのあまりの大きさに、前行く車が急にブレーキランプを灯したほどであった。


「そこまで笑うことないだろう」

「いや、あにさん、すみません。でも、あにさんがそういう突拍子もないことを言い始めたのが久しぶりでしたから、嬉しくて」


 デミオの言葉に、ブレーキを軽く踏みながら頬を掻く。

 気を付けなければハンドルを誤りかねない。

 下手なことを言わぬように気がけながら、九十九折の道を越え、さらに九重の先へと踏み込んでいく。


「うん、あにさん、あの九重『夢』大吊橋って何ですか」

「そういえば、この前来た時にも看板を見た気がする。よし、ちょっと立ち寄ってみるか」

「え、あにさん、時間は大丈夫なんですか」

「まだ余裕はある。それより、気になったところには行ってみないとな。行けなくなってから後悔しても遅いんだ」


 胸を張ってデミオに言い返し、そのまま案内に従って橋へと向かう。

 初めて走る道というのは、どこか心細くどこか心弾む。

 ただ、デミオを離れて橋を往復した後には、足の竦みと疲れに満足感が混ざる不思議な心持ちとなっていた。


「待ってましたよ、あにさん。それで、渡った感想はどうでしたか」

「いや、高くてなかなか怖かった」

「え、あにさんって、高所恐怖症でしたっけ」

「高所恐怖症というよりも、危険個所に立つのが苦手なんだ。飛行機とかビルの上ならいいんだが、むき出しで高所に立つと冷汗掻くのを忘れてた」


 我ながら情けない話であるが、デミオは笑わず大変でしたねと労おうとする。


「でも、大変だったというのは少し違うな。虎穴に入らずんば虎子を得ずでないが、あの絶景は橋の上でしか味わえない。それを吹きさらしで見られた楽しみは一生ものだから、本当に良かった」


 切り立った山肌を歩き渡るというのは、それこそ魔法使いにでもなったような心地がし、巨石が小石となる高みを往く風は私を童心に還してしまっていた。


「さあ、遅くなったし、急ごうか」

「ええ、あにさん、日が傾き始めてますから急ぎましょう」


 橋での出来事を話しながら、太陽を背に山道を駆ける。

 途中に一つ端の陥没した道が印象的であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る