第四節 青年の影偲ぶ湯平

第24話 霧晴れて 秋を詰め込む 大観峰

あにさん、ずいぶん遅かったですね。何か異常でも見つかったんですか」

「見つかったといえば、見つかったな」

「え、肝臓ですか。それとも頭の中ですか」

「いや、愛車から声がするという聴覚の問題が」


 半年に一度の健康診断を終えた私は、心配そうな顔をしたデミをに軽口を投げてからエンジンをかけて駐車場を後にした。

 決して、昨年から体重が三キロ増えたことには触れぬ。


「いや、コロナの関係で予約時間に合わせていったんだが、中でえらく待たされてな。病院で具合が悪くなりそうだった」

「そういえば、来た時も早すぎたって言ってましたよね」

「ああ、十五分前に着いてしまったからな。でも、外で待つ分にはのんびりできたからよかったんだ、広々と、外でも眺めながらな」


 早過ぎた 後悔をして 水眺む このひとときを 幸せという


「連休だからできた、時間の浪費だ」

「でもせっかくのお休みなんですよ、早く山道を走りましょうよ」

「ああ、そうだな。久しぶりに行こうか、大分へ」


 この日、私は鞄にパソコンにを後部座席に積み、既に頭は湯平の地に在った。

 コロナウィルスによる行動制限が叫ばれる中で思うような旅を楽しむこともできなくなった私は、雲の切れ間のように現れた県外移動の自粛要請の緩和を受けて悔恨を晴らそうとしていたのである。

 通勤以外の外出に、デミオのテンションも明らかに高い。

 気を付けなければ産業道路を高速自動車道に変えてしまいかねないので、確りとギアを落として心のブレーキを踏む。


「それであにさん、今日はどうやって行くんですか。今日こそ高速ですか」

「行くのは二年前と同じ道さ。途中までだけどな」

「じゃあ、ミルクロードも走り納めですか」

「さあ、それはどうだろうな」


 保田窪の交差点より東バイパスに入り、そのまま立野へ向かって駆け上っていく。

 とはいえ「最後の満ターン」は三日前に済ませており、今日はその手前でミルクロードに入るだけである。

 左足とデミオに楽しい道を上る様はロッククライミングに似て楽しいのだが、少々難があるのは南中を迎えた太陽を受けているため窓が開けづらいというところである。

 とはいえ、折角の仲秋の阿蘇路を機械式の冷房で行くのも忍びない。

 多少沸き立つ汗が気になるものの、それよりも吹き込んでくる香りの方に気が行ってしまう。


「やっぱり、阿蘇を走る時ってこの風がいいんですよね。街中の空気感も嫌いじゃないんですけど、なんだか野生に帰った気がしてきます」

「お前が野生に戻ったら、鉄の塊にしかならないだろう」

「そんなあにさん、自動運転が導入されたら僕も野良デミオになるかもしれませんよ」

「何それ、怖い」

「まあ、僕は誰かを乗せないと走ってても愉しくないですから、野良にはなりませんけどね」


 無邪気な夢の話が、枯れへと傾き始めた阿蘇の野に消えていく。

 何も考えずに洒落っ気のある話をするのも、思えばいつ振りのことであろうか。


「七月に通潤橋の放水を見に行ったきりでしたね、あにさん。この前、丸野さんのとこに連れて行ってもらったときは大分慌ててましたし、こうしてゆっくり回るのも久しぶりです」

「泊りならなおさらだな、台風の一時避難はあったけど」

「ありましたね、そういえば。あにさんが慌てて面白かったですよ」


 意地悪そうに言ったデミオのハンドルを軽く小突く。

 照れくさそうな笑いを残して、私達はさらに山の奥へと進んでいく。

 いつもは右折して内牧へ進むところをまっすぐ進み、そのまま阿蘇の外輪に沿ってミルクロードを進んでいく。

 直線に覆われた日常はなだらかな稜線に代わり、それがひどく心地よい。

 普段であれば走りづらいカーブもまたデミオとの談笑の種となる。


「それであにさん、こっちに来たということは」

「ああ、大観峰リベンジだ」

「やっぱりそうだったんですね。今日は晴れてるから大丈夫そうですよ」


 以前、デミオと共に初夏の大観峰を訪ねたことがあるのだが、その時は一面の深い霧に覆われ、幻想的な白の世界に苦笑せざるを得なかった。


「花は盛りに、月は隈無きをのみ見るものかは」

あにさん、強がっても何も出ませんよ」

「いや、帰る気力は湧いてくる」

「って、どこに行くんですか」

「ちょっと悔しいから、展望所まで」

「止めましょうよ、世を儚んだ人にしか見えませんって。おーい、あにさーん」


 一年半ほど前の光景を思い出して再び二人で苦笑する。

 展望所で一人忽然とあるのは、傍から見ればおかしな光景であっただろう。

 残念ながら、周りの人も私の影を認めることはできなかっただろうが。


「じゃあ、今日はリベンジだな」

「これでもし、見れなかったらどうしますか」

「その時はまた、笑い話にするさ」


 しかし、その心配は杞憂となった。


「やっぱり、阿蘇の景色はいいな。人間がいかにちっぽけなものかを教えてくれる。それより小さなものに悩まされていたなんて、どこかに吹き飛んでしまいそうなぐらいに」

「そんなに良かったんですか、あにさん」

「阿蘇外輪に包まれた人々の営みが見られたんだ、これほどの感動はそうない。まだ山肌は青いんだ。でも、もう芒が覆ってる。田畑もまだ明るいんだが、間もなくこれが静寂に包まれる。その一瞬を心に収められた。命溢れる初夏も良かったんだろうけど、命転じる仲秋の詰め合わせはもう堪らなかった」


 話せば話すほど次から次に言葉が出てくる。

 やがて落ち着いてから、頬を一つ掻き、私は恥ずかしまぎれにエンジンをかけた。


「でも、僕も良かったですよ、あにさん」

「うん? どうしてだ」

「なんだかしばらく塞ぎ込んでたあにさんに、いつもの調子が戻りましたから」

「言うじゃねぇか」


 えへへという照れた笑いは果たしてどちらのものなのか。

 それを確かめるより先に、駐車場を後にしようとする。


「そういえば、猿回しもやっててな。初めて見たけど、これも風情だな」

「で、あにさんのことですからしっかり掴ませたんでしょ」

「千円だけな」


 大観峰の話は止まらない。

 後ろ髪を引かれる思いと共に、私達はさらに東へと向かった。

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