第14話 由布院の森 福島の味

 JR九州には観光列車に「ゆふいんの森」というものがある。

 久大本線を駆けていく緑が鮮烈な車両であり、その瀟洒な内装も相俟ってどこか異界に足を踏み入れていくかのような錯覚を感じられる。


「と、あにさん、別の乗り物の話を僕相手にするのはどうなんですかね。昔付き合っていた人を別の人の前で称賛するぐらいうかつじゃありませんか」

「いやいや、軌道を往くのは身体を自由にできる楽しみがあるけど、車で行くのは動きを自由にできる楽しみがある。列車から眺める景色は絵としての美しさがあるけど、車道の景色は臨場感ある映画のようなものだ。それぞれに良さがあって、それぞれに楽しめるからいいんじゃないか」


 現に右手に広がる山並みは時に木々に隠れつつ、合間合間にその紅の装いを覗かせる。

 それは一望できる爽快感とは異なるものであり、自然にも恥じらいがあるのだろうかなどと邪な思いさえふつふつと湧き上がるものであった。


「学生時代に乗ったんだよ、ゆふいんの森には。それで、Pロールとコーヒーをビュッフェで頂いてから、遠景の見事さに息を呑んだものだ」

あにさん、甘い物好きですもんね」

「ああ。この久大本線なんだが、初めは都会の喧騒に巻かれながら、次第に自然が車窓を支配していくんだ。いい名前なんだ、まるで秘境に踏み込んでいくような気がして、気付けば現代社会から切り離された気分になる。ただただ神さびてという言葉が頭の中を治めて、触れることもできないだろうなと目頭が熱くなるんだ。それが、今は私の周りを包む。お前と一緒じゃなかったら味わえないさ」


 目の前を塞ぐように聳える由布岳が姿を現し、デミオと共に声を上げる。

 傾き始めた日を背にして進めば、デミオのエンジン音がひどく愉し気に聞こえた。


 商店の立ち並ぶ一角を過ぎ、湯の坪川を越えてから間もなく左手の小路に入り込んでゆく。

 由布院駅より少し離れたこの辺りは、殊に閑静で落ち着いた雰囲気を味わうことができる。


「と、それらしいことを言って誤魔化そうとしても駄目ですからね。あにさん、さっきから切り返したり大通りに戻ったりして、完全に迷いましたね」

「いやいや、この何の変哲もない道を味わおうと何度も巡ってるだけさ。ほら、向こうに見えるビニールハウスなんかなんともいい味わいじゃないか。名所もいいけど、こうして息づく日常もいいじゃないか」

「あ、向こうから車が来ますよ」

「え、待って。ここ、離合が難しい。いや、しかもぶつけたら高そうなセダンが」

「落ち着いて下さい、あにさん。落ち着いて寄れば大丈夫ですから」


 このようなやり取りは半時間ほど繰り返し、デミオとの散策を満喫した私はこの日の宿である「大正 由布の花」へと辿り着いた。

 庭に植えられた小柄な楓の木の下にデミオを停め、チェックインを済ませてから荷物を部屋へと運び込む。

 中を包むのは名が示すとおりに大正時代の洋館の雰囲気であり、古民具が落ち着いた空間を彩っていた。


「あれ、あにさん、どうしたんですか?」


 ボディバッグをかけて宿を出ようとしたところで、紅葉を見に浴びていたデミオに声をかけられる。

 日暮れにはまだ時間があるものの、少し日影が増そうとしていた。


「いや、ここ素泊まりだから、商店とかを見て回るついでに、夕食を済ませてこようと思ってな。連れていきたいとこなんだが、帰りは運転できないからな」

「ああ、いけません。飲酒運転だけはいけません。僕はここで待ってますから、明日帰る時にでも、話を聞かせて下さいよ」

「うん。それじゃあ、行ってくる」


 無邪気に笑ったデミオに見送られて散策に出た私は、すっかり陽が沈んでから宿に戻り、時節柄すっかり冷え込んでしまっているテラスに日本酒の小瓶を持ち込んだ。

 夜の帳が、深い。

 気付けば身体は冷えてしまっているのであるが、どこか目頭が熱くなっている。

 僅かな木々の揺らぎとコップの音だけが周囲にはあり、それが堪らなく心地よい。


 思えば、この一年半ほどは常に怖さと自ら飾り立てた私と付き合いながら過ごしてきたのかもしれない。

 その衣を脱ぎ捨てた今、急にデミオが喋り出したというのは私が私に戻り始めたということなのだろう。


「なあ、デミオ、今日の夕餉はよかったぞ」

あにさん、あんまり大きな声を出すと他の人に迷惑ですよ」

「由布院駅の近くの店だったんだけどな、福島から来たご主人がされていて小鍋立てに香茸の茶碗蒸しを向こうのお酒で頂いて、もう至福だった」

「それはよかったですねえ。でも、由布院に来て、それでよかったんですか」

「ああ。こうやって、自分の嗅覚を信じて誰彼気を遣わず、飛び込んだ店でゆっくりとお酒をいただきながら話に耳を傾ける。しばらく遠のいていたこのひと時が、私にとっては何よりの栄養だったんだ。福島の酒と味を遥か西の地で堪能できるなんて、何て幸せなんだろうか」

「大分飲まれてますね。あんまり飲み過ぎちゃあ、嫌ですよ」

「ああ、この一本で済ませるようにしておく。明日、一緒に戻らないといけないからな」


 木々の陰の浮かんだグラスを一気呵成に呷り、再び酒で満たす。

 それを手に欄干に近づくと、私の影は一層伸びやかとなった。


「なあ、デミオ」

「うん?」

「ありがとうな、今日は」


 一つ吹き抜けた小夜風の奥に微かな笑みが聞こえたような気がした。

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