第二節 九州の首都菊池と玉名の真玉

第33話 車食足りて礼節を知る

 二月の初め、休みだというのに用事で朝早くより菊池を訪ねていた私は、デミオの許に戻って大きな欠伸をかいた。

 しばしの間寒風に曝されていたこともあり身体は冷え切っているものの、それ以上に薄靄のかかった頭はまともな思考を拒否している。

 建物の向こうで葉を脱ぎ捨て去った木が凍えている。


あにさん、大丈夫ですか、ここで休んでいっても」

「いや、ここで休む訳にはいかんよ。せめてコンビニに移動しよう」


 そう言いながらエンジンをかけるものの、忙しい時期に無理をしていることもあって上手く気力が湧いてこない。

 加えて、目的を達してしまったがためにどこかへ行くという思考も出てこず、そのまま無事に帰れれば良しという思いが欠伸の中に混ざる。

 一度、近くのコンビニに立ち寄り、久方振りにホットコーヒーを口にしながら外気で頭を覚ましていく。


「あれ、いつもの缶コーヒーじゃないんですね」

「ああ。今は缶コーヒーばかりだが、広島や山口にいた頃はコンビニ珈琲が導入され始めた頃で、良く飲んでたんだ。あの頃はオートマのデミオに乗ってな」

「え、前も乗ってたんですか」

「ああ、会社の車だったし、喋りもしなかったけどな。でも、その頃に見た瀬戸内の景色も忘れられないぐらいいいもんだった」


 月曜日の朝ということで、慌ただしく動く車たちが多い。

 そうした光景を眺めていると前職の生活が思い出されるが、今は飽きのこぬ安芸ではなく日毎に愉しさの増す肥後にある。

 それを思うにつけ、少しずつ何かが私の中で膨らんでいくのが分かり、それを見越したかのようにデミオがこちらに目を向けていた。


あにさん、今日はどこ行きましょ」


 まだ頭は晴れぬが、背広の奥底には既に童心が蘇っていた。


「そうだな、走りながら考えるとするか」

「じゃあ、とりあえずどっちに行きます?」

「少し南へ戻ろう。合志や光の森方面を攻めるのもありだからな」


 ゆっくりと乗り込み、通勤の車列に混ざる。

 先ほどまで圧し掛かっていた重たいものがいつの間にか消え、ジャケットさえもどことなく質量を失っているようであった。

 国道三八七号線の郊外らしい伸びやかな道が、さらに私達を昂らせていく。


「そういえばあにさん、朝ご飯は大丈夫ですか」

「ああ、昨日の夜は恵方巻を三本もいただいたからな」

「何ですかそれ、大食い大会でもされたんですか」

「いや、花樹さんのとこでハーフの三本セットを予約しておいたんだ。これが旨くてなあ、あっという間に三本消えてまだ空腹感がない」


 それもあってか、行きがけは眠気との戦いとなりこの子を相当にやきもきさせたものだが、無事に着いたから良しとしよう。

 立ち並ぶ一軒家が果て無く続くような思いがし、僅かに開けた窓の隙間から吹き込む風が心地よい。

 その時、ふと案内表示の一つが私の目に飛び込んできた。


「孔子公園、か。そういえば、菊池の方にあるって言っていたな。折角だから寄ってみるか」

「あれ、あにさんって儒教とか大切にされてましたっけ」

「いや、あんまり気にしたことはない。ただ、長崎にも孔子廟があって、その雰囲気は好きなんだ。有名な観光地、という訳じゃあないんだろうけどな」


 決して儒教に詳しいこともなければ、礼節を究めている訳でもない。

 ただ、中華街よりも濃厚に彩られた大陸の空気がそこには在るようで、異郷への憧憬のようなものをそこに覚えたものである。


 孔子公園は菊池市泗水町にある道の駅に隣接した公園で、その成り立ちは平成四年と新しく、それでも中国の本格的な回廊式の宮殿が再現されている。

 元々、この一帯の初代村長がこの地を孔子の故郷にちなんで泗水村と名付けたところによるのだが、その理由が合志郡と自らの篤く信奉する孔子との名を重ねたためというのはそれだけで面白い。

 華僑に関係なく、自らの情熱だけで動かれた当時の村長は、それが町おこしの原動力として見られる日が来ようとは思わなかっただろうが、果たしてそれをどのような思いで眺めているのだろうか。


「それで、あにさんみたいな半可通が来るならいいんじゃないんですか」


 園内を一通り見回ってから戻ると、デミオが面白そうに笑っている。

 それはそうだろう。

 じっくりと見て回ったのは良かったものの、春を迎えたばかりの風に冷やされ、ほっとレモネードを両手に持って私が凍えているのである。


「いや、確かに長崎孔子廟ほどの壮麗さはないんだが、大きさと眺望が堪らなくて、ついつい見入っていたら、冷え込んでなあ」

「この辺り、背の高い建物が少ないから、見晴らし良さそうですもんね」

「ああ。その中でポツンと一人いると、これが向こうでの人の小ささなんだな、って」


 一段高く佇む孔子像もまた、私には大きく見えても早春の空に溶けてしまえば小さなものに過ぎないのかもしれない。

 それでも、二千年近くにわたって大陸文化を支えた一個の思想の前に、私は静かに頭を垂れた。


「よし、決めた。もう少し菊池を回ろう。あんまり来たことなかったしな」

「じゃあ兄さん、どっちに行きますか」

「北に戻ろう」


 震えの収まった身体を載せてデミオが右手へと飛び出していく。

 孔子も目の前におべんとうのヒライがある地に像を立てられようとは思わなかっただろうな、と私達は一つ笑った。

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