三十路男はデミオに乗り一人語らう

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

第一章 奇妙なデミオと巡る熊本の道

第一節 山都は国のまほろば

第1話 山の都へ続く道

あにさん、今日はなんだか上機嫌ですね」

「うん。まあ、デミオが喋るとかいう怪奇現象がなかったら、もっとご機嫌なんだけどな」


 休日の昼下がり、銀色の車体が黄砂によって化粧をされたデミオに乗り、私は南の方へと向かっていた。

 晴天に恵まれた道は活き活きと新緑を満たし、窓から吹き込む風が何とも心地よい。


「今から久しぶりに山都町やまとちょうへ行くんだ、嬉しくないわけがないさ」

「山都町かあ……。でもあにさん、僕は空きっ腹ですよ」

「大丈夫、着くまではガソリンももつはずだ」


 私の一言に気を悪くしたのか、自動車道に乗る前に燃料の残量を示す表示が一つ消える。


「それで、あにさんは今日は何を見に行くんです?」

「ああ、動画を作ろうと思っていてね。その取材と買出しだ」

「あれ、あにさんって執筆に専念したいから、動画制作は控えてたんじゃないんですか」


 動揺するデミオを宥めるように、軽くブレーキを踏んでからギアを一つ落とす。

 緩やかな減速の後に止まった車体は、間もなく青になった信号を認めて穏やかに歩き始めた。


「いや、確かにそうだったんだけどな。ただ、九州の地酒や料理を紹介するお祭りがあるって聞いたら、居ても立ってもいられなくなってな。だから、この一か月は動画制作を頑張るつもりだ」

「でも、九州のものでよかったら阿蘇でもいいじゃないですか。ねぇあにさん、今からでも遅くありませんよ。阿蘇に行きましょ、阿蘇に」


 強請ねだるように高まるエンジン音に苦笑した私は、その言葉を無視して九州中央道に乗る。

 初めは緩やかに、やがてギアを上げていきオーバートップに入ったところで私も車も風と一体となった。


あにさん酷いです。僕もお腹が空いてるんですから、丸野さんとこでご飯を頂いてもいいじゃないですか」


 丸野さんとは南阿蘇の玄関口立野たてのにあるガソリンスタンドのことであり、最近はうちのデミオがすっかり気に入っている。

 私もその店長のお人柄を知ってからはことあるごとに通うようになった。

 デミオの言いたいことも分かるのであるが、残念ながら私にも事情というものがある。


「いや、帰りに寄ってやるから我慢してくれ。それよりも、通潤酒造つうじゅんしゅぞうで酒をまずは仕入れておきたいんだ。食材を買いに阿蘇にも行きたいんだが、酒がないと始まらない」

「そういえば、あにさんの箱推しでしたね、通潤さん」

「箱推しって……まあ、言いえて妙なのかもしれないな」


 私の向かっている通潤酒造は熊本県上益城かみましき山都町やまとちょうにある酒蔵であり、熊本では私が最も愛する酒造会社である。

 酒蔵についての詳しい事は改めて話すことになるのだが、この山都町というのが私の住む熊本市からはそれなりに距離があり、車で一時間ほどは行く必要がある。

 今の町長は梅田うめだゆたか氏であり、音読みすると「バイデン・ジョー」と現米国大統領の名と同じになるため、一躍時の人となった。

 とはいえ、そのような搦め手だけが魅力の町ではない。

 外界から隔絶されたような自然の有様は正に山の都の名に相応しく、訪ねる度に異なる顔を私に見せてくれる。

 また、その自然の中で生きようとした人々の叡智の後も残されており、とても一日で巡れるような場所ではない。


「いやぁ、帰りに寄ってもらえるんなら、あにさんのために一肌脱ぎましょう」

「一肌って、車が脱いだら私が乗れなくなるじゃないか」


 笑いながら進んでいると、やがて自動車道は山都中島西インターに至り終わりを告げる。

 左折して進んでいけば、そこからは急勾配が続く。


あにさん、やっぱりだめかもしれません。これ、丸野さんまで持ちませんよ」

「なら、途中で少しだけ給油しよう。山都町に着いてから千円分だけ」

「いやあ、この山道を忘れてました。あにさんは踏み込んでハンドル回すだけでいいから楽かもしれませんけど」

「そんなことはないぞ。結構、この道の運転は気を遣うんだ」


 調子に乗って急ぎ過ぎればカーブを曲がり切れずにその身を欠く恐れすらある。

 早く山都に辿り着きたいという自分の逸る心をも御さねばならぬのがこの道の難しいところである。


 それでも、登坂車線を越えて数件の民家の後に広がる田の姿を見ればそうした心も落ち着きを取り戻す。

 むしろ、その美しい姿に眺めていたいという別の心が芽生え、危うく脇見をしてしまいそうにもなる。


「もう少し早かったら、桜が綺麗だっただろうな」

「ですねぇ。でも、孤独なに映える桜もいいもんじゃありませんか、あにさん」

「それもそうだな。山奥の孤高もまたいいもんだな」


 釜炒茶という三文字熟語を眺めながら今度は下り坂に身を任せる。

 四速を時に三速に変えながら、平地に至れば再びアクセルを踏む。

 田畑に断崖に高い木々にと過ぎ去っていくものに心で手を振っていると、積み上げられた木々の後に、一際急な下りを迎える。

 三速でも早くなりすぎるこの下りは、時に二速を噛ませつつ、ミッションらしくブレーキの踏み込みを抑える。

 鼻歌でも聞こえてきそうなほどにご機嫌なデミオは大声で山道をうたい、それに合わせるように私も歌う。

 甲子園では、東海大相模さがみが大分明豊めいほうに追い付いたらしい。

 それがまるで夢のように感じられるような空気が辺りを満たし、ただ恍惚として進む。

 途中から付かず離れずの塩梅あんばいで従う千滝川せんたきがわせせらぎがそうした思いを引き立て、浮世から心を引きがす。


あにさん、あれ」

「ああ、浜町はままちの看板だ」


 右折して私たちは、いよいよその地に足を踏み入れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る