第18話 西海に再会を誓う夕べ

「ああ、やっぱり歳をとったっていうことなんだろうな」


 口にした言葉が、重く心にのしかかる。

 クラッチを踏みぬいてエンジンをかけようとするものの、上手く力が入らない。

 二、三度試みているうちに火の点いた車は、穏やかに涼風をもたらす。

 汗ばんだ服も構わず横になり、奥歯を食いしばると車の揺れの激しさに気付く。

 それが、何とか眠りをむさぼろうとした頭を目覚めさせ、よりはっきりとした思考を与える。


 考えてもみれば、お盆から始まって繁忙期を挟んで弾丸旅行を三度も組んだのである。

 蓄積した疲労が知らぬ間に私の身体を蝕んでいても不思議ではない。

 夜の佐世保を飲み歩き、翌朝戻ろうという魂胆であったのだが、そのような若さはもう残されていなかったのだ。

 歯ぎしりするとともに、車は静かに揺れる。

 無機質な立体駐車場の中に丸まった私は、暗澹としつつ、その違和感に気付いた。


「なあお前、わざと黙ってるんだろ」


 私の声に、エンジンが一度高く鳴る。

 全く、誰かに似て隠し事ができないもんだと、私は笑ってしまった。


「なら、話し相手になってくれ。休むのはそれからだ」

「大丈夫なんですか、あにさん。身体の調子は」

「お前が黙ってた方が、よっぽど具合が悪くなる。なに、ひと眠りする前の暇つぶしぐらい付き合ってくれてもいいだろ」

「後悔しても知りませんよ、あにさん」


 こういう時、すぐに振り向くというのが何ともいじらしい。

 しかし、それを言ってしまえば調子に乗ったデミオに気恥ずかしさを感じてしまうからおくびにも出さないようにする。

 手を伸ばしても僅かに届かないハンドルが、今はちょうど良い。


「それであにさん、今日は歩き回るぞと張り切ってましたけど、そんなに歩いたんですか」

「ああ、足が上がらくなるくらいには、な。なんと言っても、スタンプラリーを二周もしたんだ。でも、飽きないんだよ。活気が、新たな路地が、気になる景色が私を呼ぶもんだから」

「もうあにさん、それをせかせか歩いてしまったんでしょう、休みもしないで。この前、山形でも二十キロ歩いたとか豪語されてましたけど、休み休み行かないといけませんよ」

「ああ、分かった」


 デミオの溜息がどこか優しい。

 思い返してみれば、デミオが初めて口を利いたのは私が疲れ果てて逃げるようにして由布院へと向かった日のことだった。

 務めてひょうきんに振舞いながら、この子はよくものを見ているらしい。

 サイドブレーキをゆったりと撫でながら、私はその心を素直に受け取ることにした。


「それに佐世保って兄さんの出身の県にあるんですよね。でしたら、そんなに物珍しくもないんじゃないんですか」

「そうでもないんだ、これが。長崎県ってたこ足のように土地が分かれてるから、長崎市に住んでると福岡には行くけど佐世保にはほとんど行ったことがないということが起きてしまう。文化も少し違うしなあ」


 恐らく、長崎を飛び出すまでに佐世保の市街地を訪ねたのは一度きりであったように思う。

 それをデミオに話すと、そんな大げさなことはないですよと言いながら、


「でも、それが本当なら、あにさんの佐世保人生の半分以上は僕と一緒ですね」


と笑っている。

 それもどこか気恥ずかしげであるのが何ともいじらしいのだが、それだけは心の奥底にしまっておく。


「まあ、その話は置いておくんだが、活気は本当にすごかったぞ。あくまでもゲームのイベントだからそれなりのものだろうと思ってたんだが、町全体で私達を迎え入れようという活気というか、情熱というか、そうしたものが暑気以上に燃えていた」

「そんなにすごかったんですか」

「うん。駆り出されたボランティアも多かったんだろうけど、艦これをよく知らない人でも、佐世保を訪ねてきた人を歓迎してくれていた。少なくとも、私にはそう感じた。分からなくても、本当はいいんだ。ただ、その歓迎の気持ちが街一つを遊園地のように変えてしまい、また来たい、また遊びたい、次はあそこを見てみたいと思わせる。佐世保で再会したと思わせるんだ」


 デミオの相槌の速さに、私が思わず早口になっていたことに気付かされる。

 そして、気付けば身体から切り離されていたように感じていた足も、しっかりと動いてくれるようになっている。


あにさん、少し元気になってきましたね」

「ああ。考えてもみれば、昼はたくさん食べたからな。手まり寿司に、レモンステーキに、カレーに佐世保バーガーに……。なんだ、齢とか関係を失くすだけの元気を貰ってたんじゃないか」

「そうですよ、きっと。若くても年をとっても、この炎天下を休まず歩き回ったら、そりゃ身体もおかしくなりますって。でも、休めば元通りです」


 ああ、そうだなと頷きながら、少しずつ微睡の中へと踏み込んでいく。

 軽やかなデミオの声がまるでララバイのように響き、私は甘美な沼へと引き摺られていった。




「あれ、あにさん、戻るの早かったですね。夜戦の後、飲みに行くんじゃなかったんですか」


 夜の帳が佐世保市街を覆い、人の流れも落ち着く夜九時を前にして私は再びデミオの元に戻った。

 あの後、ひと眠りして身体を整えた私は「夜戦」と呼ばれるイベントの夜の部に参加するべく佐世保駅裏手の広場へと向かった。


あにさん、すっかり顔が明るくなりましたね」

「ああ。足もずいぶんよくなった。少しだけ飲んでくるから、明日、朝になってから帰ろうか」

「ええ、ぜひ楽しんできてくださいね」


 こうしたやり取りをして戻ってきたものだから、デミオが目を丸くしている。

 それこそ酒が入っていないかを確かめようとしているのかもしれないが、もちろん一滴も入っていない。


「もしかして、具合が悪く……」

「家に帰るまでが、夜戦」


 力強く言い切った私に、デミオが呆けた顔をする。


「佐世保の夜はお預けだ。今日は無理せずに帰る。帰ればまた、来られるから」

「分かりました、あにさん。転進するんですね」

「違う、きちんとした撤退だ」


 デミオのエンジンがひときわ高らかに鳴る。

 それは小さくとも確かな鼓動であり、だからこそ、この子と一緒に帰らねばという思いを強くする。


「そういえば、護衛艦の国旗降納を初めて見たんだが、あれは感動的だったぞ」

「へえ、どんな様子だったんですか」

「夕闇迫る港湾に、一人の水兵が平が立ってな……」


 熱気を帯びた街に手を振って、私は日常へと戻っていく。

 再びの山道は、土産話で賑やかなものであった。

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