第三節 長崎根無し草
第19話 島原は今日も雨だった
「
「いやいや、明日の朝早くから出かけた方が危険だ。知ってるだろ、私の判断力の弱さは。それにもうここまで来たんだ、諦めて行くぞ」
雨の降る中、私は長洲フェリーの乗り場を目前に、近くの赤いコンビニでデミオと毎度の賑やかなやり取りをしていた。
すでに辺りはだいぶと暗い。
車の往来はほとんどなく、カーラジオは淡々と時代小説を流し続ける。
釣りバカ日誌を知る身からすれば、その声の持つ安心感は代えがたい。
「それに、明日も昼の三時には戻ってこないといけない。向こうで時間を取るには今日のうちに行ってしまってゆっくりした方がいい」
「分かりましたよ、もう。でも、無理はしちゃいけませんよ。思ったより身体がついてこないのを感じてから、そう間は経ってないですよね」
「分かってる。だからフェリーを使うんだ。半時間ほど休ませてもらうさ」
憎まれ口をたたくようにしてその真意を隠そうとするデミオを撫でてから、コンビニで買った缶コーヒーを空ける。
スクリューボトルから香ばしさが沸き立ち、恍惚としたひと時を過ごしてから私は長洲港へと向かった。
長洲港は熊本県でも北部に位置し、島原は多比良港とを結ぶ有明フェリーが就航している。
自宅からの走行距離や時間を考えれば熊本新港から向かうのも一つなのだが、いかんせんこちらの方が少し安い。
それに、走行距離にして十キロほどの差であれば、ガソリン代も気にせず運転を楽しめるというものである。
長洲港に着いてからは、船賃を払ってから係員の導きのままにフェリーへと乗り込んでいく。
二層に分かれている車両甲板のうち上の方へと誘導されるが、マニュアル乗りとしてはこの時間が最も緊張する。
「心臓に悪い急勾配だよなぁ。オートマの頃はそんなに気にしならなかったんだけどな」
「
「そうそう……。って、やかましいわい」
いつものやり取りをしてから、船室へと昇る。
デミオとはここでしばしのお別れであるが、冬に差し掛かったこの季節に船旅を共にすれば冷え込んで仕方がない。
船室は何とも広々としており、短距離航路ということであれば自動販売機などの必要十分な設備が揃っている。
冬場にトイレに行く際には、少し北風に吹かれる必要があることを除けばおよそ快適な四五分の船旅を楽しむことができる。
雨が降りしきる中で外に出るのは足許が覚束ないのであまり好まない。
大人しくプラスチックの座席に陣取り、一息つく。
備え付けのテレビでは、金栗四三氏を主人公とするドラマが放映しているようだ。
大相撲の中継があればちくわでも齧りながら観戦するのであるが、そうでなければ子守唄にしかならない。
ふと見まわして人の多さに呆然としつつ、この人生の一瞬の交わりに心地よさを覚える。
ともすれば運命を共にするかもしれないという奇縁は果たして、一瞬のものなのか、それとも一生のものなのか。
微睡の中でそのようなことを戯れに思いつつ、私は静かに瞳を閉じた。
「それで
「ああ。一〇分ほど仮眠が取れたから充分だ。意識も視界もはっきりしている。これなら問題なく長崎まで行けるさ」
下船してから右手に曲がり、私達はまず島原鉄道に寄り添いながら西へと進んでいく。
右手には夜の有明海が広がるが、その物言わぬ姿にはどこか凄みがる。
雨がひどい。
「そういえば
雨音で途切れがちのデミオの声がどこか新鮮だ。
「いや、大きな理由はないんだが、強いて言うなら海との再会の嬉しさと、海との別れの惜しさがあるんだろうな」
「海、ですか。でも
「小さい船だとな。ただ、長崎と熊本の大きな違いはここなんだと思うけど、熊本で海を見ようと思うと少し遠出する必要がある。でも、長崎だとそれが身近なんだ。熊本は好きなんだけど、刷り込まれた海の景色が時々、私を寂しくさせるんだと思う」
「なるほど、それで時々、海に行くんですね。でも、職場の人に週末の予定でちょっと海に行きますは、止めた方がいいですよ」
デミオの言葉で昔の失態を思い出す。
急に海が恋しくなった私は、ある週末にたまたま予定を聞かれて、
「ちょっと、海に行っています」
と答えたことがある。
この時、抱えていた仕事がそれなりに多かったこともあり、どうも疲れた顔をしていたせいで、先輩の一人が病んで入水するのではないかと勘違いしたらしい。
「そうだな、せめて海を見ながら美味しいものを食べに行きます、と言えばよかったな」
「そうですよ、
他愛もない話をしながら神代の辺りで線路を跨ぎ、広域農道である雲仙グリーンロードに入る。
この道は雲仙岳の北側を囲うようにして続いており、その起伏に富んだ道は走るのに面白い。
特に、エンジンブレーキを精一杯に利かせようと唸りを上げるデミオの声に耳を傾けながら往く下りは、道に乗って風と一体となる心地がする。
雨がひどい。
「
「あ、お前も気付いたか。珍しく頻繁にフットブレーキを噛ませてるんだが、視界がかなり狭くなってきてる。流石にここから戻ることはできないから進むしかないが、これ以上酷くなってほしくはないなあ」
街灯などなく、闇に溶け込む中をハイビームだけを頼りに進むため、視界の悪さは死活問題になる。
重い不安がのしかかる中、私とデミオはいつもよりも慎重に、いつもよりも穏やかに山野を駆けるのであった。
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