第10話 久木野往く 数鹿流崩れに 頭垂れ

 一旦、デミオと共に五七号線を立野方面へと駆け下るのであるが、その左手には熊本地震で崩落した旧阿蘇大橋の跡が残る。

 ――数鹿流すがる崩れ。

 その道を五年前に震災があったのと同じ日に通るというのは、何とも言えないものがある。


あにさん、長かった、ですね」

「ああ。短いようでいて、長かった。でも、これからも長い」


 奈落へと続くのではないかと思わせるほどの断崖は、その実、天門橋を思えば然程の高さではないのかもしれない。

 しかし、事実としてこの谷底に落ち、命を落とした若者がいる。

 新たな道への喜びの裏にあるものを忘れるわけにはいかず、そうしたものを一つずつ丁寧に集めながら進まねばなるまい。

 頭を垂れる。

 些細な動きにうるさいデミオも、この時ばかりは何も言わない。


「でも、新緑の季節に走ると確かに気持ちがいいな」

「そうですね、あにさん。この風を浴びられるのも、僕がこうして走れるのも、本当にありがたいもんですね」


 真新しい橋を越えて、やや濁った白色に塗りつぶされた法面の先へ向かう。

 Vの字に阿蘇から南阿蘇へと向かうのは今だからこそできることだ。

 立ち並ぶ温泉宿の看板と生い茂る草木の緑の羨望を浴びるように、デミオは山路を滑走する。


あにさん、それでご飯はどうされるんですか。あの後、結局あーだこーだ言ってどこにも入りませんでしたよね」

「道の駅のレストランで何か食べよう。赤牛料理もあるだろうからな」


 絶対、蕎麦に走りますよねというデミオの言葉を強く否定する。

 やがて右に曲がると、辺りに広がる田野の合間に蕎麦屋やカフェの看板が顔を出し、次第に心が流されそうになってゆく。

 いちご狩りという言葉もまたどこか艶めかしく私を誘うようであった。


「やっぱり、休日にのんびり来た方がよかったな。どうしても、色々と回ってしまいたくなる。ほら、あそこに窯元の看板も見える。寄ってから、使えるのを買っていきたいんだけどなぁ」

あにさん、仕方ありませんからまた一緒に回りましょう。その時はもっとのんびり、時間取っておいてください」


 坂を上ったところで、再び右折して大きな通りに出る。

 それから間もなく見えた看板に合わせて進めば、そこには道の駅あその望久木野くぎのが広がっていいた。


 あその望久木野は南阿蘇村にある道の駅で、特産品を取り扱う他にあか牛の館や復興マーケットなどを併せ持つ。

 また、その奥にはドッグランや芝の広場を備えており、自然の中で目いっぱい身体を動かすことも可能だ。


「まあ、インドアのあにさんには似合いませんけどね」

「あんまり言うようなら、あのEV充電器を突き刺すぞ」


 冗談を言い合いながらあか牛の館の前に車をつけ、中へと入る。

 レストランも併設されているためそのまま昼食をとることも可能であるが、販売されている精肉の値段を見てそれを断念した。

 あか牛はサシの入り方と赤身のバランスが絶妙で、私としては好みの和牛である。

 ただ、いかんせん常食するには私の財布は小さく、こうして何らかの機会がなければ口にすることはない。

 ステーキ肉に合わせて細切れも買い求めたのであるが、それもまた普段口にするものの何倍であろうかという思いを捨てることができずにいた。


あにさん、少し呆けてますよ。いい値段がしたんですね」


 悔しいことに、戻ったところでデミオにやっつけられる。

 当初の目的は果たしたのであるが、私はさらに道の駅本体へも立ち寄った。

 中に並ぶものは道の駅阿蘇と共通するものも多い。

 ただ、板張りの軒先に至るとなぜか身体が右手へ右手へと引き寄せられる。

 そして、気が付けば私はそば道場の中に身を置いており、目の前には温かい蕎麦そうめんが置かれていた。


「いかんなぁ、夢遊病のように蕎麦を求めるようになってしまっている」


 戻ってデミオになんといわれることか、と一つ心の中で呟いてからそれを口にする。

 久木野では蕎麦の栽培が盛んであり、それに伴って蕎麦打ちの体験をすることもできる。

 二度ほどお邪魔して自由気ままに打たせていただいたこともあるが、打った蕎麦をそのままいただくこともできる。

 ただ、この日は乾麺の蕎麦を買い求め、いただいたのも蕎麦粉の割合を抑えて細くした蕎麦そうめんに留めている。

 普通の蕎麦よりも香りは抑えられてしまうが、その分のど越しがよく、するりと胃の腑に収まってしまった。


あにさん、分かってましたよ」


 私の顔を見遣ったデミオはそう言うと、大柄なマスクをはめたあか牛の像に一礼してから、通りへと躍り出た。

 来たのとは異なる道を選び、南阿蘇の生活臭を嗅いでいく。

 滑らかに離合のできるぎりぎりの道幅を行けば、私もデミオも好奇心を隠すことができなくなってしまうようだ。


「あ、あにさん、あそこで何かカメラが回ってますよ」

「お、本当だな。じゃあ、放映されればこの姿が出るかも知らん」

「見ないといけませんねぇ」

「そんな、我が家にテレビはないんだから、出るに任せるだけさ」


 他愛もない話を交わしながら、やがて新阿蘇大橋へと戻る。

 数鹿流すがる崩れはなおも滔々と流れる水を眼下にして崖にへばりつく。

 いずれ朽ちてしまうのかもしれないが、この悲喜交々の感情を残さないといけないなとつぶやくと、デミオは一度だけエンジンを高鳴らせた。

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