第二章 九州を西へ東へ何を追う

第一節 傷心者の至る湯布院

第11話 馴れ初め

 十一月の上旬、晩秋というよりも初冬の風が吹き始める中、私は大荷物を抱えて車の前に立ち尽くしていた。

 この年は会社で組織改編の煽りを受け、お付き合いしていた方とも別れ、手術も経験して何とも目まぐるしいものであった。

 積もり積もった心の澱みは、やがて私に旅路への思いを強くさせ、思い立ったが吉日とばかりに私は慌てて宿を取り荷物をまとめた。

 快晴とまではお世辞にも言うことはできないものの、程よくかかった雲が周りを心地よくする。

 ただ、それを素直に喜ぶには私の心は疲れすぎていたのかもしれない。

 銀色の車体をそっと撫でて車に乗り込むも、吐いて出るのは溜息ばかりである。

 走り出した車に独り言ちしながら、私は浜線バイパスをまずは南へと向かった。


 元々この車は前のAZワゴンが突如として臨終を迎え、次はマニュアルをと探して見つけたものである。

 新車をとも思ったのであるが、とてもそのような余裕はなく、中古でよいものがないかを探しているうちに偶然見つけることができた。

 ころんとした丸い車体が何とも可愛らしく、それでいながら五速ミッションと走るには十分すぎる性能は不釣り合いに思える。

 この車とは共に下関や佐世保などを駆け回り、佳人と眺めた景色はそれなりに多い。

 それが今では空の助手席。

 何とも寂しいものだとせせら笑う自分を、どこか少し嫌悪していた。


 五七号線が物言わず続き、次第に灰色の風景が私を眠りに誘おうとする。

 それを懸命に覚まそうとするもののいかんともし難く、通りにある緑のコンビニに寄り、車内でひと眠りしてから珈琲と菓子を買い求める。

 外に出てから車に戻るものの、漠然と車の往来を眺めてしまった。

 阿蘇への道は未だ半ばであり、朝からこうして車を出したのは今にして思えば早計だったのかもしれない。

 繁忙期にこのような形で浮世を離れようとしたのであるが、重たい疲労ではどうしようもないのかもしれない。

 この旅の唯一の友である車をまじまじと眺める。

 私の中にあるものを示すかのように車体は埃に塗れており、出る前に洗車の一つでもしておけばよかったという後悔に苛まれる。

 広島で勤めていた頃から見知った車体は、現行モデルとは異なりやはりどこか愛嬌がある。

 それを良しとするのか、それともより格好のつくものを求めるのかは人によるのだろうが、私はこの一昔前の姿の方が気に入っている。

 人懐っこい少年のように思えてしまうのは私だけであろうか。

 それこそ、ヘッドライトは二重瞼の愛くるしい瞳に見えてくるし、サイドミラーなどちょうど耳のようではないか。


 近寄ってそのボンネットを静かに撫でる。

 ナンバープレートが僅かに上下するように見えた。


あにさん、僕を撫でても何も出ませんよ?」


 目を丸くする。

 流石の疲れで私の頭はどこかおかしくなってしまったのだろうかと、右耳の上をとんとんと叩き改めて向き直る。


あにさん、それよりあんまり遅くなると道に迷ったときに取り返しがつきませんよ。そろそろ道を急ぎましょ」


 間違いない。

 こいつ、喋るぞ。

 いや、我ながら何を言っているのか分からないが、突如として喋り始めた愛車の姿に、私は右手を震わせながら思わず空を覆う大きな雲を見上げてしまった。




 地震の後で通い慣れた道をさらに東へと進んでいく。

 中をデミオの鼻歌が包むのであるが、私の混乱は収まる気配を見せない。

 ただ、過ぎ去っていく菊陽の街並みに別れを告げながら、私は現実とも虚構ともつかない道を見詰めていた。


「で、なんでお前が喋るんだよ」

「え、猫や犬が喋す世界なんですよ、僕が喋ってもいいじゃないですか」

「いやいや、ファンタジーじゃないんだぞ。大体、喋れるんだったらなんで今まで黙ってたんだよ」

「喋ったらどうなるか分かってましたもん」


 デミオの鼻歌がにこやかな笑い声に変わる。

 まだ昼前というのに道はひどく明るく、腹の虫もしきりに鳴いている。

 そうして逸る気持ちを抑えるかのように、信号は赤となって立ち塞がった。


「じゃあ、逆に何で今になって急に喋り始めたんだよ。黙ったままだったら混乱することもなく進めたんだが」

「それは、あにさん――」


 外から一陣の風が吹き込む。


「あんまりにも、見ていられませんでしたから」


 言うやデミオは再びその身を駆動させ、前へ前へと進んでいく。

 苅田の並ぶ一角は、初夏とは異なる香りを齎し、それが鼻腔を衝く度に私の心が高鳴っていく。

 遠くに控える山並みはその身を朱に染め、私達を迎える準備は万端であった。


「そうか、それは悪かったな」

「いや、僕がお節介だっただけですよ、あにさん」


 デミオの鼻歌は止まらない。

 やがて道の駅大津の看板が顔を見せる頃には、私も共に歌うようになってしまっていた。


あにさん、さあ、阿蘇に入りますよ」

「よし、じゃあいつもの急勾配だ。しっかり頼んだぞ」

「了解です。あにさんもしっかりハンドル握って下さいよ」


 こうして、喋るデミオと私の奇妙な旅は始まった。

 草木に陰る道もどこか楽しそうに謳うような秋の暮れのことであった。

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