第三章 私はまだ肥後を知らない
第一節 阿蘇開闢
第29話 阿蘇の高嶺に 二人駆けつつ
夜半、痛飲してからひと眠りした私は館内の自動販売機でプレミアム・モルツを買い求め、持ち込みのノートパソコンの前に座り込んだ。
水音以外には静かなもので、開栓の心地よい響きが小さな部屋で反芻される。
青白い画面には四行ほどの言葉が並び、それを凝視しながら口にすると滑らかな苦味がどことなく心地よい。
「ただ、これだけじゃあ書けないんだよな」
一気呵成に飲み下した一本の後に、私は素裸となり窓を開けた。
今日の宿である
その話もいずれまた書きたいものであるが、いかんせん、筆が進まずに困っているものだからそれどころではない。
そこで私は、一人部屋に珍しく付いている露天風呂に浸かることとしたのだが、その静かな闇の重さはそれだけでひどく心地よい。
十六夜が南天には輝いているのだろう、星たちもその姿をやや潜めている。
「おーい、どうせまだ起きてるんだろ」
「
こうした時、デミオは見事に的を撃ちぬいてくる。
普段であればそれを誤魔化すかのように茶化して終わるのだが、今宵ばかりは素直に応じ、困った困ったと笑う。
湯の湧きたつ音はこの会話を邪魔することなく、ただ見守るばかり。
「止めて下さいよ、
「大丈夫だ、お前が喋っても雨は降らんかった。それに何とか一編書き上げたいんだが、どうしてもここまで来るまでの思いが強すぎてな」
「あの地震から四年半にして、ですからね。一緒に走った道を思い出しても、ずっと変わってきましたからね」
熊本地震の頃、私達はまだ知り合っておらず、それから一年半ほどして迎えたのだが、それからは均されていく熊本の道と爪痕の消えていく肥後の街を共に走り続けてきた。
それは単に生きることに必死であったという段階から、何かを取り戻すために必死になる段階へと歩を進めていたということなのかもしれない。
「ということは、明日が終わりという訳ではないが、新たな段階に足を掛けるということは間違いなさそうだな」
「そうですね。
無邪気に弾む声が阿蘇に立ちこめるものを照らす。
それが、全ての引き金となった。
「なるほど、な。歌い騒いだ人たちがいた、私達もその一員だった、ということか。よし、これなら書けそうだ」
「あれ、
「言葉が出てきた以上は、今が書き時だ。また明日、頼むぞ」
そう言って部屋へと戻った私は、麦酒をもう一缶開けてから一心不乱に画面へと思いと言葉を叩きつけた。
翌朝、まだ湿り気の残る布マスクを後部座席に架けた物干しに吊るしてから、デミオとの三日目の旅に挑んだ。
昨日よりは早いものの、既に日はそれなりに昇っており、駐車場の車も疎らとなっている。
「それで
「ああ、なんとかな。今日の昼一時に投稿するようになっている。北側復旧道路の開通と同時に、な」
「それじゃあ、今日はそっちを通って戻るんですか」
「いや、私はまた別の道を使うさ」
有名な食堂も並ぶ内牧の商店街を抜け、昨日来た道を少しだけ戻っていく。
仕事のない平日の朝というのは見事に晴れ渡るもののようで、心なしか周りの車も歌うように進んでいるように見える。
まあ、実際に話しかけてくるのはこの子で十分なのだが。
「それで
「いや、無理矢理方言を絡めなくてもいいんだが、まずは阿蘇神社に向かうつもりだ」
「阿蘇神社ですか。確か、震災でまだ本殿は修理中でしたよね」
「ああ。それでも、せっかく道が開くんだ。その道中の無事を祈っても罰は当たるまい」
「
分かってるさ、と答えながら地元のスーパーであるみやはらを見送り、やがて眼前に石造りの鳥居を迎える。
それを左手に躱して進むと、僅かな離合の末に駐車場へと迎え入れられた。
阿蘇神社は健磐龍命を初めとする十二柱を祀った神社であり、全国に多数存在する阿蘇神社の総本社である。
その楼門は仏閣の様式を取り入れた有名なものであるのだが、私が目にする前に熊本地震を受けて全壊した。
威容は工事パネルに映し出された写真からも窺い知れるものであるのだが、やはり間近で見る日を心待ちにしている。
一度拝礼してから社務所を覗くと、御朱印が貼り付け用として配布されている。
なるほど、ウィルスとは信仰の形も変えるのだなと頷きながら、私はその脇で交通安全のお守りを一つ買い求めた。
「
戻るなり茶化してきたデミオに、
「ああ、安産祈願って書いてあるのを買ってきた」
と笑って返してから、ダッシュボードに祈りを詰めてクラッチを強く踏みぬいた。
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