第35話 魂消る玉名の奥座敷
行きしなで右手に望んだ棚田の前に降り立ち、私は静かにその遠景を収めた。
苅田の持つ魅力というのは、青田や稲穂の持つ力とは異なり、どこまでも心を吸いこんでいく。
立春を前に冬の最後の雄姿を見せつける風が私を冷やそうとするが、胸の奥に灯るものがそれを良しとしない。
「
「ああ、おかげでまだまだ走れそうだ」
「それならよかったです。でも、田んぼっていつ見てもいいですよね」
何かを見透かしたように視線を向けるデミオをひと撫でしてから、思いきり背を伸ばす。
我ながら下手な照れ隠しだなと苦笑しつつ、南中を迎えたばかりの空を仰いだ。
「よし、それじゃあ玉名に行こう」
「え、ここからですか? 菊池をもうちょっと回るんじゃないんですか」
「いや、今日Dの原画展が更新されたって聞いたのを思い出してな。ちょっと離れるけど、行こうか」
乗り込んでラジオをつけると、すぐに牧歌的な音楽が流れ始める。
「昼の憩い」という言葉が穏やかな声に乗り、何気ない日常の一風景が頭の中で水彩画となっていく。
「そういえば、この辺りも温泉が多いですよね」
「ああ。小さな家族風呂がいくつかあっていいんだよな。一人で入るには少し御高めだが、たまにはいい贅沢だ」
「そりゃ、
県道五三号線を互いに笑いながら突き進む。
先の感傷も相俟って、今日ばかりは素直さが先立ってしまう。
そして、三号線を跨ぐと「すいかどうろ」に入り、いよいよ熊本の森林山野の奥深さを思い知らされる。
両脇を固める冬山の静けさは私に息を呑ませ、夏とは違う愉しみを齎した。
「それにしても、すいかどうろってなんだか可愛らしい名前ですよね」
「まあ、植木は西瓜で有名だからな。七城のメロンドームに至ってはメロンの形してるし、この辺の特産物への愛着はすごいもんだな」
田原坂の辺りで国道二〇八号線に合流し、後はいつもの慣れた道を突き進む。
三年ほど前までは月に一度は往復していたのだが、それがめっきりと減ってしまい、そしてまた度々通るようになった。
そのきっかけは実家の処分のために長崎へ向かうというものだったのだが、頭というものはよくできたもので、道の癖から景色までよくよく残されていた。
菊池川を越えて新玉名駅の見つめる中で坂を駆け上がる。
市街地に温泉地を後に残し、九看大前の交差点から農道に入れば目的地まで僅かとなる。
一つ深呼吸をしてからハンドルを握り直し、背筋を正す。
「
「ああ。分かってる」
看板に合わせて右手に入れば、そこから急勾配が始まる。
ギアを一つ落とさねば進むことが叶わず、デミオも唸りを上げて突き進む。
初めは左手に、次いで右手にも石灯籠が立ち並ぶようになり、玉名がその深い懐を見せていく。
「
「ああ。もう一つギアを落とすぞ」
二速にギアを入れ、鋭利なヘアピンを切り抜ける。
右に左と大きくハンドルを切りながら、丁寧にアクセルを踏む。
「地獄への道は善意で舗装されているというが、極楽への道はその逆で険しいのかもしれないな」
「かもしれませんね。ですから、気が逸れて道を外して落っこちないようにしてくださいよ」
灯篭の密度が増していく。
捧げられた祈りの先に九十九折は消え、さらに坂は続く。
やがて白壁の先に景色が開け、私は目的の地に着いた。
蓮華院誕生寺奥之院は昭和の初めに川原是信が再興した寺院であり、元々は浄光寺があったとされるが焼失したものと考えられる。
そのため、現在この地に在る建造物は百年も経たぬものばかりであるのだが、その威容は目を見張るものがある。
この寺院の面白いところは信者だけではなく広く衆生を救うべくボランティア活動を盛んに行いながら、クラシックカーのフェスティバルなども行うところにある。
晩秋に横綱を呼び、土俵入りを奉納するのだが、私が初めて訪ねた際は白鵬関の土俵入りを目にするためであった。
「でも、仕事の時間が押して、土俵入りは見られなかったんですよね」
「ああ。まあ、白鵬が見られたからよかったんだけどな」
そして、今度は私の愛読書である『今日どこさん行くと?』の原画展が開かれ、その展示内容が変わったとあって三度の来訪を果たしたのであった。
「それにしても大きいですよね、あの五重塔」
「上ってから見ると、いい景色なんだ。山の上のさらに高い所から見るもんだから殆ど邪魔するものがない」
「
「まだ欄干があるから大丈夫だけどな」
揶揄うデミオを駐車場に残し、境内へと入る。
しかし、この日の目的は仏閣ではなくその片隅にある一心会館たんぽぽ堂の方であった。
寺に土産物屋があるというのは少々奇妙な気分にさせられるが、それだけ広く尋ねる人々を愉しませたいということだろう。
これもまた、浮世の柵から衆生を救う一つの在り方なのかもしれない。
そして、入ってすぐに漫画と同じ仕様のアルトを目にして、私は思わず笑ってしまった。
これを作り、貸し出したファンもさることながら、これを室内に入れて至極自然に存在させる雰囲気もまた見事である。
昭和の初めに寒村であったというこの近辺を思えば、それだけでどこか愉しくなってくる。
「それにしても、アルトを見てきたと言ったら、あいつは浮気者と言うんだろうか」
冷えた身体を白玉ぜんざいで温めてから戻って確かめると、デミオは笑ってアルトはアイドルですもんねと返してきた。
下りの急勾配を唸りながら耐えた後で、私はそのギアをそっと撫でた。
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