第38話 私はまだ九州を知らない

 国道二一八号線を右折すると、途端に景色が狭まり、木々が自然の几帳となる。

 その奥に控える神秘を隠すような在り方が、枯れを間際にした木々に輝きを与え、網膜を緑で満たしていく。

 途切れ途切れの白線がその道の手入れの少なさを物語り、人目を避けて存在してきたであろう渓谷の姿を期待する元となる。


あにさん、本当にこっちで合ってるんですよね」

「ああ、この辺りはまだ迷う要素はないはずだ。ただ、着く直前が心配ではあるんだけどな」


 出る前に道の確認はしていたのだが、ここまでは予定通りである。

 大分との県境で山野に混じって進めば着くというのは地図からも明らかであるのだが、その最終盤において毛細血管のような細道があることに気付いていたため安心などできるはずもなかった。

 道と言えば進めそうな気もするが、場合によっては余裕のない獣道に入ってしまうことも考えられるため、おっかなびっくりというのがしっくりくる進みである。


あにさん、キャンプ場があるみたいですよ。どうですか、一人でキャンプとか」

「いや、私はそんなにアウトドアは得意じゃないから。それにテントも調理器具もないから厳しいだろうな」

「そんな、あにさんなら星が綺麗だからとか酔狂な言い方して、酒瓶持ってやってきて泊るんじゃないんですか」

「宿があればやるんだけどな。流石にできんことはしない」


 牧場の入り口のように掲げられた看板を横目に、少しだけ後ろ髪を引かれる。

 デミオの言いたいことも分かるのではあるが、無理と無知を重ねた先に人に迷惑をかけかねないことをする訳にはいかない。

 次第に深くなっていく林を、慎重にハンドルを切りながらギアを落として進んでいく。

 ガタゴトと鳴るタイヤとデミオの鼻歌とがとこか調和せぬひと時であった。


 蘇陽峡は阿蘇の凝灰岩質の台地を五ヶ瀬川が削り取り、U字の妙を成した峡谷である。

 九州のグランドキャニオンとも呼ばれ、その絶景は知識としては良く知るものであった。


「無事に着いて良かったですね、あにさん」

「ああ、いつもいつも迷ってばかりという訳にもいかないからな。たまには真直ぐ着けてよかった」


 南中を過ぎて辺りが暑さで満たされようとする中、展望台の駐車場に降り立った私は鞄に貴重品とペットボトルだけを詰める。

 デミオをひと撫でしながら辺りを窺うと、一組の老夫婦だけが目につき、いかにも静かなものであった。


あにさん、あんまり無茶して歩き回っちゃいやですよ」

「大丈夫だ。もう佐世保で懲りたからな」


 言い置いて展望台に上ると、絶景が一つ目に飛び込んできた。


 秋晴れの 深山を分かつ 大河かな


 緑の山野の堂々たる姿が足下へと迫り、その天頂は澄み渡った青が支配し、遠くの山影を白い雲が飾る。

 その合間を薄絹のように川が蛇行しながら下り、山の支配に抗うかのようにして在る。

 このように大きな、人を呑み込むような景色が熊本、いや、九州にあったことなど思ってもおらず、それが私の足を震わせる。

 目に見えるものは現実であり、しかし、それはまるで絵画のように存在しており無言で私に訴えかける。


 そもそも、私はまだ見ぬ景色を求めて就職先を決め、全国転勤の中に身を投じた。

 九州など小さなものとしか思わず、それを回ったことを良しとし、ただただより広い世界を知ろうとばかり焦っていた。

 それは若さゆえの狭量であるかもしれず、あるいは、無知であるがゆえの盲目であったのかも知れない。


 吸い込まれるようにして遊歩道を下る。

 木陰が私を優しく包み、木々の声と鳥の囁きだけが私の耳につく。


 秋深し 杉堂々と 立ち並び


 高校時代に琴の尾岳の登山道を一人歩み、その深さに感動した時を思い出す。

 遠くに悠然と在った五ヶ瀬川が間近に迫り、潺が鼓動のように染み入ってくると、後悔という二文字がどこからともなくやってきた。

 自然に対して錆びた鉄橋のなんと小さなことか。

 透き通った大河の素は、苔生した巨石の合間を何事もなくすり抜けていく。

 それを真上から覗き込む楽しさを、学生時分の私は、いや、それまでの私は忘れていたのかもしれない。


 空を一羽の鳥の影が過ぎ去っていく。

 陽光は思ったよりも優しいものだ。


 飛んでいけそうなところに、小さな棚田が見える。

 あのように果てしない所をも人は切り拓き、生き抜いてきた。

 そうした方々はこの景色のみを知っていたのか、それとも、新たな景色を求めてあそこに至ったのか。


 養魚場の脇に至る。

 人によっては何もない所に何故、と訝しがるのだろう。

 しかし、歩き回った今であれば、ここが求めるもののある地であったということが分かる。

 何故か一輪だけ咲いた彼岸花が、しかし、堂々とその朱を主張していた。


「それで、はしゃいで歩き回って、帰りの登りで後悔したんですね」

「仕方ないだろ、あんな景色を見せられたら理性なんて吹っ飛ぶさ」


 デミオの許に戻った私は、中で張りきった両足のふくらはぎを丹念に揉みつつ身体を少し休ませていた。

 蘇陽の自然を体内に迎えた代償として、登りのきつさを味わったものであるが、それもまた楽しいものであった。


「そんなに良かったんですか、蘇陽峡の景色って」

「まあ、な。ただ、それよりも心を突き動かされた」


 右足を下ろして左足を揉みながら、私は一度息を吐いた。


「私は、まだ九州を知らない。無論、熊本も、長崎さえも」


 デミオが澄ましたように笑う。

 外では雑草の合間を一羽の足長蜂が彷徨っている。


「なら、一緒に知ればいいじゃないですか」

「ああ、そのつもりだ」


 二人して笑いながら、私は足をゆっくりと揉みしだいた。

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