第39話 清和に蕎麦の香りして 時の輝く道を往く

 蘇陽峡を後にしてから、流石に空腹を覚えた私は既に頭の中が蕎麦で一杯となっている。

 朝から小腹に何か入れたような記憶もあるが、一日で七食は腹に収まる蕎麦っ食いである以上、己の心の欲するままにその胃に入れるものを探すだけである。


あにさん、それで蕎麦はいいんですけど、さっきのお店に戻りますか? それならすぐですけど」

「いや、それは後に取っておこう。それより、もうちょっと山の中にお店がないか探してみようと思うんだが、何か良さそうなお店はないか」

「そうした嗅覚なら、僕よりあにさんの方があるじゃないですか。僕の鼻に頼ったら、ガソリンスタンドにしか着きませんよ」


 それもそうかと笑いながら国道に復帰し、そこから再び山道へと戻っていく。

 賑やかな店もいいのだが、ここまで来た以上は静かな庵のような店を求めたくなるというのは致し方ないことだろう。

 そこでしばらく走り回り、蕎麦を手繰り、やがて道の駅である「清和文楽邑」に腰を落ち着けていた。


あにさん、少しは落ち着きましたか」

「ああ。少しは、な。ただ成程とは思った。ラーメンでも粉落としとかがあるわけだから、火の通り切っていない麺を好む風潮もあるんだろうな」


 人様のご宗旨に触れようものなら叩き切られても文句は言えないのが麺料理の世界である。

 だからこそ、今は素直にいただくようにしているのだが……。


「いやぁ、お店から出てきた時のあにさんの表情よかったですよ」

「どんな顔してたんだ」

「雪の日に外に出たら、積もっていなかったのを見た子供の顔ですかね」

「つまり、私は子供か」


 苦笑しながら、思わず舌を巻いてしまう。

 言い得て妙とはこのことだろうかと思いながら、それをおくびにも出さず辺りを窺う。


 道の駅清和文楽邑は山都町でも中央に位置しており、宮崎より戻ると初めて熊本を思い出させる駅でもある。

 それ以上にこの道の駅には清和文楽館が併設されており、第二と第四日曜日には文楽人形劇の定期公演が行われている。

 この日もちらと覘いてみたのだが、時宜が噛み合わず臍を噛むこととなった。


「それで、このまま通潤橋の方に戻りますか、あにさん」

「いや、その前に中を少しだけ覘いてくる。まだ十分に時間はあるしな」


 デミオを残して物産館の方に立ち寄ると、中は他の道の駅の例に漏れず山都町を中心とした物産品で溢れかえっていた。

 それだけで楽しい気分になってくるのだが、この地もまた南阿蘇から続く蕎麦の産地であるようで、文楽の里を冠した蕎麦が否が応にも目に飛び込んでくる。

 そうすると下火になっていた思いが少しずつ沸き立つようになり、ジビエや菓子などが少しずつ目の端に追いやられていく。


「あれ、あにさん、早いですね」

「蕎麦を食いに行くぞ」

「えっ、何ですって」

「蕎麦を食いに行くぞ、急げ、蕎麦を食うぞ」


 戸惑うデミオを急き立てながら道の駅を後にする。

 そのまま乗り付けた駐車場で、デミオが一際高い声を上げた。


あにさん、あれ」

「おお、これは見事なもんだな」


 黄金の花が一面に広がる。

 それはこの地が咲かせた豊穣であり、いきり立った私の心さえも穏やかなものに塗り替えていく。

 コート・ドールもこのように輝くのだろうかと溜息を吐くと、デミオがそれを口にする。

 これだけですっかり参ってしまった私は、酷く落ち着いてから中へと入った。




 半時間ほどして戻った私を、デミオは笑顔で迎えてくれた。

 この子にもまたいい目の保養になったのだろうが、それ以上に私の顔が変わったのだろう。

 フロントガラスに薄っすらと見える私の影が明度を増している。


「今度はどうだったんですか、って聞かないんだな」


 先ほどの店を出てすぐに感想を求めたデミオは、ただ少し悪戯っぽく笑うだけであった。


「そりゃあにさんの顔見てたら分かりますよ。今度は満足されたんですよね」

「ああ、今度は蕎麦で満足した」


 「そば文楽」という白地を残して紺に染め抜かれた暖簾に首を垂れてから、私達は駐車場を後にする。


「そんなに良かったですか、そのお蕎麦」

「格別という訳じゃないんだが、確りとした蕎麦切りだった。それにお通しが蕎麦かりんとうと言ったら、もうそれだけでたまらないさ」

「え、お通しって、まさか」

「いや、飲んではないんだ。ただ、他の言い方が思いつかなくってな。後は外の景色を眺めながら手繰ればそれだけでご馳走だ」


 太陽に向かい駆けていく。

 既に制限時間は一杯と言ったところであるが、それでも、この街の流れであれば問題はなかろうとその足取りは緩やかである。


「最後にお茶とぜんざいというのも乙なもんでな。まるで酒を飲んだ後のように気分がいい」

「本当にあにさん、飲んでませんよね?」

「臭いと性格で分かるだろ。それだけ、この街の時間は私を酒無しで酔わしてしまうということさ」


 なんだかくさい台詞ですねと笑ったデミオのハンドルを少し小突く。

 大矢川と別れて続く田の輝きはどこまでも私達の後を追うかのようであり、豪奢な出迎えに誘われて私達は今日の終点へと進んだ。

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