第40話 山都の風 偉人の念

 浜町に辿り着いた頃には三時を大きく過ぎており、日が山奥へと帰ろうとしている。

 少し汗ばむようであった暑さも穏やかなものとなり、デミオと並んでいてもどこか心地よい。

 どこかで時計の進みが遅れるようになったのではないかと思わせるこの街において、しかし、真新しさを感じさせる「やまと文化の森」は何ともしっくりとそこに在った。


あにさん、どこへ行かれるおつもりですか」

「ちょっと通潤さんに行ってお酒を買ってくる。この前は買えなかったしな」


 そのような街を駆けた私は、純米原酒である山頭火の一升瓶や吟醸酒である蛍丸などを買って戻る。

 この山都町の原野を剝き出しにしたような原酒のラベルは商品名ではなく、種田山頭火の句が記されており、買い求めようとしてどれにするかで逡巡してしまう。


 うれてはおちる をひろふ


 これをデミオに積みながら、果たして私には熟れ落ちていくようなものがあるのだろうかと思うと、どこか背筋の凍る思いがする。


あにさん、どうされました」

「いや、ちょっとだけ二十代の頃を思い出して、な。愉しい時代だったって」

「でも、それだけだとそんな顔はされないですよね」


 秋風が、にわかに騒ぐ。

 私に似ず、時に鋭くなるのはどうしたことか。


「まあ、どこかうろのようになっていた時代でもあるんだ。だから、だろうな」


 様々な経験を得られた時期でもあったのだが、それが養分になっているかは別である。

 正しくは養分になるものを得ながら、それを自分に環流させて来たかという問いかけが重い。


「なら、今から満たせばいいじゃないですか」


 そのような後悔をこの子はにこにこと吹き飛ばしてしまう。

 少し離れて、ピカチュウの大作り物が堂々としている。


「一緒に走って、空っぽのところを埋めていきましょ。そしたら、大丈夫ですよ、きっと」

「それ、何か保障でもあるのか?」

「あるわけないじゃないですか。でも、そんなものでしょ、あにさん」


 二人して無邪気に笑う。

 思えば、三週間前も同じようにして笑ったものである。




 通潤酒造は寛政蔵で行われたとある漫画家のファンミーティングの後、こちらに立ち寄り、同漫画家の原画展を堪能した。

 それが私と山都町との出会いなのであるが、その時に浴びた山都町の風が何とも快く私の胸に残り、間を空けずの再訪と相成った。

 旅続きで金欠となっていたため、存分に楽しめなかったというのもありはするのだが。


 ただ、原画展を堪能してからも暫く駐車場でゆっくり過ごしていると、ファンミーティングの司会を務めたタクシー会社の社員とその作者がともに館内を訪れたのである。

 話慣れぬ女性を目の当たりにすると、仕事以外では困惑してしまう私は先のミーティングで上手く話せなかったこともあり、思わず興奮してしまった。

 ただ、その後の寂寥感は単純に「お祭り」が終わってしまったということのみではなく、


「あれじゃあ私は道化じゃないか」

あにさん、気付いちゃいましたか」


存外にミーハーであった自分を知った私へのおかしさにもあった。




 中で続く原画展を眺めながら、執筆を再開した自分の在り方を思う。

 高校から大学にかけては我武者羅に書き、青年らしい荒々しさと直情で以って当たっていた。

 それを今更ながら再燃させるのは流石に酷であり、今の私には合わない。

 では何を私は拠り所に当たれば良いのかという問いに対して、一つの答えを与えてくれた作品の根に触れていると、静かに身体の奥底から湧き上がってくるものがある。

 歪曲し湾曲し、蛇行し滞留しながら過ごしてきたことを変えることはできない。

 ただ、だからこそ今日、私は自分の中に流れる無知を知ることができた。

 それならば、一つの道筋を得られたということで空もまた価値のあるものだったのかもしれない。

 所狭しと並ぶ熊本の情景と輝かしい笑顔の絵を見ていると、そうした戯言のような慰めが確信に変わっていく。

 デミオの元に戻ると、その顔はどこか嬉しそうであった。




 金色の稲穂に囲まれた通潤橋に臨む。

 熊本地震の傷跡はまだ深く、苔生した石橋に鉄の足場と青いビニールシートがギブスのように組まれている。

 熊本に来て知ったこの橋を、しかしいつでも見られるところ高を括って見に行かずにいた私を今は叱り飛ばしたい気分で一杯である。


「放水はまだみたいですね、あにさん」

「だな。でもまあ、それはそれで次に来る時の楽しみになっていいじゃないか」


 ただ、そのおかげでこの子と共に待ちわびるということができ、また、ゆっくりと山都町を巡る機会をいただけた。

 何事も問題もあれば、いいこともある。

 それを少しだけ前向きに捉えて書いてみようかという思いを、戯れに通潤橋を成した布田氏の銅像へと飛ばしてみた。


 稲穂らが 頭を垂れし 偉人像


「よく覚えていたな、その句」

あにさん、僕の記憶力を舐めたらいけませんよ。回ったところはみんな思い出に残してますから」


 頼もしい言葉に、私はそっとひと撫でする。

 秋晴れの中、傷つきながらもそこにある通潤橋の堂々たる姿は、西日を浴びてひどく輝かしく見えた。

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