第6話 鯛の花咲く権兵島に 笑う子猫の朗らかさ

 意気揚々と青いクーラーボックスと共に小舟へ乗り込むと、デミオを残して水面を滑るようにして進んでいくのであるが、日が出ぬために少し肌寒い。

 ともに陣取った家族連れから少し合間を取り、舳先へさきでその日の釣果と後の予定を頭に描いていた。

 取らぬ狸のなんとやらと言われてしまえばお終いであるが、そこは物書きのさがとして常に最悪の事態を想定している。

 この曇天に寒さであれば、恐らく慣れた釣り人であっても坊主になるであろうから全くの釣果ちょうか無しも想定している。

 そうあれば釣堀の利用料数千円が水泡に帰すのだが、それもそれで一興と既に腹を括ってはいる。

 デミオにはああ言ったものの、猫の迎える権兵島ごんべえじまで受付をしてから竿と餌を受け取ってから筏の方へ向かう。

 間もなく大柄な男性が見事な鯛を一枚釣り上げられ、私の言い訳は既に通用しないということを悟ってしまった。


「で、あにさん、今日は何枚釣れたんです?」

「ああ、今日は三尾釣れた。クーラーボックスの中に鯛が三枚あるから見てみるか?」


 三時間半ほどして戻ると、すっかり落ち着いたデミオがそこでは待っており、対する私はそそくさとクーラーボックスを積んでいく。

 私の言葉に何を思っているのか黙り込んだデミオは、しかし、エンジンをかけた途端に斬りつけるようにして問いかけてきた。


あにさん、本当に鯛を三枚釣りました?」

「ん、どういうことだ」

あにさんの言い方が気になりまして。鯛が三枚釣れたならそういうはずじゃありませんか。ということは、あにさんが釣ったのは鯛と他の魚で合わせて三尾、足りない鯛は何かで貰いましたね?」


 流石に付き合いが三年ともなると、僅かな言葉尻でも見逃してはくれないらしい。

 クラッチを踏み込んでから、私はその日の釣行について話して聞かせることとした。


 釣堀とはいっても天然の地形を利用したそれは、故に日や時間によって変わる釣れるポイントを探していく必要がある。

 それ自体は着いて間もなく名も無き名手の釣果によって知ることができたのであるが、まずは小さい釣り人にそれを譲り、次いでお姉さま二人組に譲る。


「いつもの人見知りのせいで割って入れなかったの間違いじゃないんですか」

「まあ、そうとも言うな。子供の方は本当に他意はなかったんだが」

「鯛だけに?」


 ハンドルに一つ小突いてから来た道を戻っていく。

 やや陽の光が覗くようになってはいたが、その輝きは西から差すものとなっていた。


 さて、そうした方々が離れて落ち着いてから同じような場所に投げ、まずは一枚を釣り上げたのであるが、それからは魚が動いたのかぱたりとアタリが遠のくこととなった。

 それでも、先のお兄さんは枚数を重ねていき、やはり腕前というのはこうした時に出るのだなと笑ってしまう。

 遠くで水上スキーを楽しむ男性を眺めていると、隙を伺っていた猫が私の餌を平らげていく。

 見事にきびなごと小海老をやられてしまったのであるが、それもまたこの島では些細なことでしかない。

 私も鯛と命のやり取りをしているのであるが、猫からしてみれば目の前に貴重な食べ物を転がしている間抜けということだろう。

 そうした自嘲の末にもう一枚を何とか釣り上げたのであるが、その間に一枚ばらしてしまっている。

 そこでもう満足してしまっていたのであるが、折角なのでもう一枚となってしまうのが釣り人の悲しい性であろう。

 それでも、閉園間際になってアタリが来たので引き上げてみると、これが小型のアラカブであり、さすがにこちらは海へとお帰り頂いた。

 とはいえ、捨てる神あれば拾う神ありというもので、店のお姉さんが敢闘賞に傷物の見事な一枚をおまけにつけてくれた。


「それで釣果と持ち帰りが釣り合ったんですね」

「ああ、そしてその一枚が一番大きいときたもんだ」

あにさんの腕前を考えれば、それでいいじゃないですか」

「うん、いい話の種にもなったし、こうした今ではお節介と言われてしまいそうな優しさが、何とも沁みるんだよねぇ」


 道端に打ち捨てられたように在るコンテナに別れを告げて、デミオは楽しそうに進んでいく。

 やがて大通りには辿り着くのであるが、私もこの子もこうした生活道路の方が好ましいようである。

 島のお姉さんによると春雨は天草を濡らさなかったようであるが、それにしてはひどく瑞々しい香りが開いた窓から吹き込んでくる。

 追いかける車も、追いかけられる車もない中で静かにデミオの鼻歌に耳を傾ける。


「それであにさん、今日はもうこれでお帰りですか?」

「いや、上天草の道の駅に寄ろうと思う。試したい料理があるんだが、それに必要なものがあるはずだから」

「それでしたら左折するのがよさそうですね。でもあにさん、来しなに矢部のケンチキという看板を出した店もありましたよ」

「え、カーネルおじさんでもあったのか?」

「違いますよ。でも、なんだか気になりませんか? ほら、あれです」


 国道二六六号線に面した交差点で、左折指示を出しながら右手の方を見てみると少し離れて橙色の看板が薄っすらと見える。

 よく分からぬ食があれば知りたいと思うのは、私もこの子も共通するところなのだろう。

 信号待ちという逡巡の間に、私の心は激しく揺さぶられようとしていた。

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