3-3


 廃墟に木霊する僕の声。


「おうおう。わかってるから、そのままこっちへ来い」


 思っていたよりも、このホテルは広かった。だから何分も走ってやっと、先生の姿が前に見えた。そして先生は本を開いて、自分の方へ来るよう手招きをした。

 やっとこの、後ろから追われるランニングから解放される。僕は指示された通りに先生の方へまっすぐ走る。


「あ、やべ」

「先生っ!?」


 来いと言ったのに、先生は僕に背中を向けて走り出した。

 どういうことだ。いつも通りに指を噛んで、妖怪の名前を呼ぶだけだろうに。

 それにさっきの「やべ」はどういう意味だ。


「ちょっとっ! 先生! どういうことですか!」


 先生の走る速度は決して速くない。少しスピードを上げれば、すぐに先生に追いついた。

 僕と先生、並走しながら聞く。

 先生の顔はさっきとうって変わって、顔が青ざめている。さらに、僕以上にダラダラと汗をかいている。

 暑さで汗をかかなかったのに、今になってかいているとはどういうことだ。なんでそんなに焦った顔をしているんだ。


「……やらかした」

「はいっ?」


 走りながらでは、先生の小さな声がよく聞こえない。

 僕が大きな声で聞き替えれば、先生は走りながら大きく息を吸い込んだ。


「だーかーらっ! やらかしたの!」

「そんなの意味わかりませんってば!」


 僕たちは迫りくる猫の妖怪を背に、廃墟ホテルの外に出る。

 じめじめした空気が、僕らを迎える。

 そんな炎天下なところに、あの妖怪は出てこなかった。じっとホテルの扉のところから、僕らを見下ろしている。

 近づこうものなら、食ってやる。そんな風にも見えた。


「ひっさしぶりに、走ったから、腹、いてぇ……」


 ぜえぜえと肩で息をする先生走った距離は僕に比べてかなり少ない。

 それでも僕以上にしんどそうに脇腹を抑える姿は、体力がないことがわかる。

 甘いものばっかり食べて、引きこもっているからそうなるんだ。


「はぁはぁ……で、どういうことですか、やらかしたって……」

「ちょ、たんま……お兄さん、体力、ねぇか、ら……」


 確かに僕よりも年上だ。確か前に聞いたときは、二十七とか言っていた。僕と五歳しか変わらない。

 それでこんなに体力に差が出るのか。こうならないように、僕はちゃんと運動しよう。


 何度もゆっくり呼吸を繰り返して、先生がやっと息を整えた。

 腰をぐっと伸ばして、僕の肩をぽんと叩く。


「いやぁ~、めんごめんご。まじ、めんご」

「だから、何があったんですか!」

「いろいろ、と? 今日は無理っぽいわ、わりぃな」

「先生っ! いい加減にしてくださいよ!」


 ふらっと僕の言葉は交わされる。あまりにも会話になっていないから、怒鳴るような声を出してしまった。

 するとそんな僕を見た事のない先生が、目をチカチカさせて、斜め上を見ながら妖怪を集める本をおそるおそる僕に見せる。

 開かれたページは何も書かれていない。


「意味、わからないんですけどっ」

「あー、本当はさ、妖怪が入るページが決まっているわけ。そこじゃないと、回収できねぇんだわ。で、あの妖怪のページを開こうとしたら……」


 先生は一ページ前を開こうとする。だが、それは叶わなかった。

 どういうわけか、前のページとくっついてしまい、開くことができないようだ。


「……どうしてくっついているんです?」

「なんだろうなー。この本もらった時のこと、全然覚えてねぇけど、なんか食ってたんじゃね? くっつくぐらいだからおにぎりでも食ってたんだろうな。そんでぽろっと落ちたご飯粒でくっついちゃった的な?」

「せ、ん、せ、いっ!」

「だーかーら、謝ってんだろ! 怒るなら昔の俺に言えってーの!」


 逆ギレは止めてほしい。この場面で怒りたくなるのは僕の方だ。

 何で食べながら大事な物をいじっているのか。

 普段の先生も何でも適当。昔からこんな感じだったのだろう。

 それにしてもこれは酷い。


「くっついてるなら、さっさと剥がしてください!」

「今やってるよ!」


 地面にあぐらをかいて座って、慎重にくっついたページを剥がす。いつもなら破ってしまえと言いそうな先生が、慎重なことをするなんて目新しい。


「……先生」

「今度はなんだよ! 俺、今、忙しいの! 焦ったらくっついてるページも破れる。破れたら回収できねぇんだからな!」

「いや、こっちもやばいですって……」

「あん?」


 ホテルの扉を指差す。先生もそれにつられて、顔を上げてそこを見た。


「妖怪、出てきたんですけど……」


 あの巨体の猫の妖怪がのっそりと、ホテルから出て来ていた。

 牙と爪が日光に当たってさらに鋭く光っている。


「馬鹿っ! お前は逃げてろ! 俺はこれを剥がすから!」

「嘘ぉぉぉ!」


 妖怪は僕を追う。

 慌てて先生から距離をとるように走れば、妖怪の目は僕を追うように動いた。


「ひいっ! やっぱり僕の方に来たっ!」


 叫びながら走る。

 炎天下を走るなんて、学生以来だ。部活は入っていなかったから、体育の授業を思い出す。ずっと走って、熱中症にでもなったらどうしよう。

 僕よりも先生の方がひ弱に見えるし、僕が倒れたら先生は僕を放置するに違いない。

 それで妖怪に食べられちゃうこともあるかもしれない。そんなの嫌だ。


「先生、早く!」

「うるせぇ! やってるよ!」


 流石に立て続けに走れば体力は削られる。

 長時間走るのはかなり体にくる。


「よし、とれた! 戻れ、猫又」


 先生の前を通り過ぎた瞬間、ブワッと大きな風が巻き起こった。

 振り返れば、そこにさっきまでいた大きな猫の姿はない。あるのは、本に指を押し付ける先生の姿だけ。


「ざまぁねえな。こいつも雑魚だったか」

「ぜぇぜぇ……どの口が言うんですか。ページがくっついていたせいで、めちゃくちゃ焦っていたくせに」

「うるせぇな。結果的にとれたんだからいいんだよ!」


 先生は本をじっと見る。するとそこには、いたって普通の大きさになった先ほどの猫が、器用に二本足で立っている姿が描かれていた。


「捕まえられて何よりですけど! もう、こういうのは勘弁してくださいよ!」

「ういー」


 先生はまるでしおりの代わりに使っていた小さな紙を落とした。それを拾えば、何やら変な形であり、赤いインクで模様が描いてある。


「先生、これは?」

「あ? それは……ゴミだ」

「はい? そんなわけ……」


 呆れた顔を先生に向けたとき、その紙が急に震えだした。

 慌てて手放したが、それが地面に落ちずに宙に浮かぶ。

 風もないのに紙切れ一枚が浮いている様子は、物理的にあり得ない。あり得ないけど、妖怪がいるってことだけであり得ない世界なのだから、そんなこともあるのだろう。

 僕は深く考えないようにした。


『あ、あー……聞こえますかー、聞こえますかー?』


 紙から声がする。高さからして女性だろう。


「ポチ。それ、破っとけ」

「いいんです?」


 言われるがまま、紙を掴もうと手を伸ばせばひらりとかわされた。


『んもう! やっぱり聞こえてるでしょ! バカ息子!』


 キーンと高い声に、僕は慌てて耳をふさいだ。

 内容からして、この声の主は先生のお母さんなのだろうか。


『あんたねぇ、まだ集まった妖怪、三体だけじゃない! 半分もいないじゃないの!』

「うっるせぇな! 俺だってやってんだよ! 調べたり、回収するのも疲れるんだよ! 知ってんだろ!」

『知ってるわよ! あたしだって動けりゃやってたんだから!』


 不思議な紙を通じた、口喧嘩が始まった。

 こういうとき、僕はどうしたらいいのだろうか。

 そもそも僕は親子喧嘩をしたことがない。親の顔を知らないから当たり前だけど。


「もう少し待ってろ、ババア! ポチが見つけるから!」

『あんた、野良犬でも拾ってんじゃな――』


 言葉の途中で、先生が紙をつかみ取り、ビリビリに破いた。


「いくぞ、ポチ」

「いいんですか、お母さんとの……電話? とはまた違うかもしれない連絡を途中で終わらせちゃって」

「いーんだよ。この歳になってあーだこーだって言われたくねえし。このままやっていけば、妖怪も集め終わるってーの」

「そういうものですかね」

「そういうものだ」


 パラパラとちぎられた紙が地面に落ち、風に吹かれて散っていく。


「飯に行くぞ。腹減ってんだよ。今日は焼肉だ」

「やった」


 親子の関係はわからない。でも、きっとそれぞれの関係があるのだろう。

 僕が立ち入るようなものではない。

 炎天下を走って疲れたし、僕は犬みたいに先生の後ろをついて行った。



 ----



 焼き肉店にて。

 好きに頼んでいいと言われて、わからないけど写真的においしそうなものを頼んで焼く。

 タブレットで注文できてしまうから、気になったものをポチポチ注文する。

 そして次々に運ばれていく真っ赤な肉。焼き方も、順番も気にしていない。運ばれてきた順に、適当に網に乗せて焼いては、食べる。

 ファミリー向けの焼き肉店であるため、肉の他にも野菜、ドリンク、麺からデザートまでそろっているからか、僕の前では、チョコレートケーキを食べている先生がいる。

 つまれていくケーキのお皿。一体何皿分、ケーキを食べていくのか。もうワンホールぐらいは食べているだろう。焼肉店で見る光景ではない。


「あ、猫」

「ひいぃ!」


 急に先生が窓の外をさして言う。

 猫。当たり前に身近にいる動物なのに、今日のあの怖い妖怪の猫を見てしまったから、猫という言葉に僕は敏感になっていた。


「バーカ。普通の猫だぞ。可愛いやつ。しかも子猫もいるぞ」


 おっかなびっくりに外を見れば、白黒の猫が一匹歩いている。その後ろには、グレーの小さな子猫がひょこひょこ付いて歩いていた。


「ビビりすぎだってーの」


 そう言って僕を馬鹿にしながら笑う先生。

 フォークを持つ先生の手には、まだ赤い血がついた絆創膏が目立つ。

 妖怪を回収するたびに、指から血を出しているのだから、きっと痛いだろう……でも、今日の僕はもっと先生を痛めつける。そう決めた。

 だって、先生のせいでさらに怖い目にあったのだから。


「今日は先生の財布を空にします」

「おいおいできるのか? 俺の財布は分厚いぞ」

「若者の胃袋を舐めないでくださいよ」


 香ばしい匂いが鼻を衝く。

 先生もちらほら肉を食べたけど、ほぼほぼ僕が食べ続けた。

 それでも先生の財布がぶ厚かったのは、何だか納得がいかない。

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