5-4
ガラガラの声が聞こえて、顔を上げる。すると目の前に、白髪の腰の曲がった老婆が杖をつきながら立っていた。
人柄のよさそうな老婆。でも老婆……山姥の可能性がある。僕の体がぶるっと震えた。
「先生っー!」
先生を呼ぶも、反応がない。先生は、いや先生の手足である天狗が近くで僕を見ていると言っていたから、妖怪が近づいて来たら何かしてくれるはず。
呼んでも何もないっていうんじゃあ、この老婆は山姥じゃないのか?
「おやおや……お兄さんには先生がいるのかえ。うらやましいねぇ……」
ああ羨ましい、と言葉を繰り返す老婆。
「こんな暗い時間、いくらお兄さんでもうろうろしていると危ないだろう? お腹も空いているみたいだし」
「あはは……聞こえてました?」
お腹が空いていることを知られて、少し恥ずかしくなった。
「よかったら、これをどうぞ」
「わぁー、ミカンだ。いいんですか?」
「ええ。うちで出来たものだけど」
知らない人から貰った物を食べるなって言われたことはあるけど、手作りの物じゃないし大丈夫だろう。
お腹がうるさく主張を繰り返すから、僕はありがたく皮をむいて、実を一つ、口に入れる。
ツブツブがはじけて、甘い味がくる……そう思っていた。
「んんんんっ!」
あまりにも酸っぱい。唾液が止まらないし、眉、目、口。全部が顔の中心に集まったみたいだ。
「やっぱり似ているねぇ……」
「ふぇい……?」
酸っぱすぎて、老婆の話なんて右から左に流れていく。
「似ているんだよ、お前さんが。昔の……そうねぇ、あれは何百年前だったか」
「何、百……?」
「頼りないところも、酸っぱいものが苦手なところも。全部、まるで生き写しだ」
「ひぃっ!」
老婆の目つきががらりと変わった。
目尻にシワを寄せていた優しそうな表情から一転、鬼のような形相だ。
逃げなくちゃ。そう思ったけど、思うように足に力が入らない。
「ひっ……」
老人とは思えない力のおかげで、恐怖で動けない僕の体は宙に浮く。
成人済みの男である僕を、首の後ろの服をぐっと掴んで軽々と持ち上げたのだ。普通の老人にこんな力はない。
となれば、この老婆は人間ではない……妖怪だ。
どんな妖怪かって、それは僕の持っている情報と照合させて浮かび上がるのは山姥しかない。
体が浮いたのは一瞬。僕は首根っこ掴まれて、引きずられながら、山姥は山の中を駆ける。
いくらあがいても離れられない。枝が僕の皮膚を裂こうとも走り続けていく。
頬に、腕に、足に。鋭い枝が傷を作る。
「せ、んせっ……!」
僕の声はガサガサという音に消されていく。
人のいない山の中。道なき道に連れ込まれている。
怖い。
僕はどうなるんだ。
食べられるのか?
怖い。
どんどん暗い場所へと連れて行かれる。
「うぐっ……」
ボンッと投げられるように、暗闇に突き出された。
背中が固い物に当たる。光が差し込むのは一カ所だけ。洞穴のようなところなのだろう。
肌寒いし、怖い。僕はこのあと何をされるっていうんだ。
「美味しそうな匂いがするねぇ……お兄さん。もしかして、そうかねぇ。儂らの……」
どう逃げるか。
目の前で唯一の出口に立つ妖怪から逃げる方法がないか考える。
怖いけど、相手は老人の姿だ。大柄というわけではない。うまくいけば、横を通り過ぎて逃げられるかもしれない。
先生、ここからどうにか出てみせるから、早く助けて。
「僕は何も知りま……せんっ!」
耳をふさいで目もふさぐ。何も見たくない、聞きたくない。
せめて先生に見つけられやすいよう、地面を這うようにして明るい方へ進んだ。
「お待ちよ、お兄さん」
だけど、あっさりと僕の行く手に老婆は立つ。
道を阻まれて、僕はまた、暗闇に戻るしかなかった。
「逃げなくてもいいじゃないかえ。ゆっくりと、お話ししましょうや。ねぇ……
「ある、じ……?」
前にも聞いた単語だ。
そうだ、山谷響を回収したときだ。
同じ言葉を繰り返すはずの山谷響が、誰でもない自分自身の声で言ったのだ。主って。
その意味がわからなかった。今も山姥が同じ言葉を言っているし、これもまたわからない。
なんで僕にそう言うの?
僕は妖怪の主なんかじゃない。
「知らぬかえ? 自分が何者なのかを」
「知ら、ない……」
僕は僕であって、それ以外何物でもない。
妖怪の話なんて、大真面目に聞きたいわけじゃないけど、思わず聞き返して言ってしまったのが悪かった。
妖怪が僕の胸倉をつかみ、さっきと同じ鬼のような顔を近づけてくる。
「
「はい……?」
もう僕は泣きそうだ。
意味もわからないし、目の前の顔が、妖怪が怖くて体がガタガタ震える。
「
「かはっ……」
妖怪の指が僕の喉元を押さえつける。
僕の気道を、水分を失いつつある皺だらけの手に黒く染まった鋭い爪を押し付けられて、呼吸ができない。
頭が酸素を求めている。
「このまま首を引きちぎって、そこから血を吸おうか」
もがいてその手から逃げようとすれば、余計に体は酸素を求め始める。
もうだめだ。僕はここで、この老婆の姿の妖怪に殺されるのか。
過去が走馬灯のように流れる。同時に生理的涙も流れ始めた。
視界がかすむ。死がもうすぐ僕のところにやって来る。
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