1-3


「じゃまするぜー」


 先生は容赦なく部屋に上がった。しかも土足で。ここは日本だぞ。家に入ったら靴ぐらい脱いでほしい。


 確かに僕の部屋は、ゴミ出しの時間に起きられなくて、パンパンになったゴミ袋が入ってすぐの所にいくつもある。


 自炊は全くしないし、ご飯は全てバイト先のコンビニとかで済ましているから生ごみは一切ない。カナブンは何故かよく家の中で見かけたけど、ゴキブリは未登場だ。


 だから家にあるのは洗剤とか、消耗品のゴミぐらいだけど、ちゃんと袋に分けている。こぼれているものはないから、土足で入るほど汚くないはずだ。

 そんなゴミ屋敷ほどでもない、中途半端な玄関を抜けて、すぐに先生は左を見る。

 そこは毎日使っている浴室だが……。


「いたいた。あいつだ」

「ええっ、いるんですか? やだ」

「静かにしてろ」

「むぐっ」


 僕の口は先生の手で押さえつけられた。

 とりあえず黙って、先生の視線の先をたどる。

 そこには浴室内で、桶や浴槽を嘗めまわす不気味な姿があった。


「んんんんっ!」


 叫びたくなるのを極力控えて、バタバタと僕は出来るだけそこから離れた。どんっと壁に頭をぶつけたけど、叫ばなかっただけ褒めてほしい。

 だって、そこにいたのは鉤爪をもった足に、ざん切り頭の子供。

 そんな異様な姿だけでなく、嘗めまわすという奇妙な行動。気持ち悪いし、怖い。


「ぴぎっ!」


 妖怪は僕が立ててしまった音に気づき、ぎょろっとした目でこっちを見てきた。

 そして気味の悪い声を発しながら、僕の方へと大きくジャンプした。


「ぎゃああああ!」


 夜も遅いというのに、僕は叫んだ。

 静かなアパート。僕の声はきっと、他の住民の耳に入っているだろう。

 だけど、ここは風が吹けば倒れそうなほどのおんぼろアパート。

 住んでいるのは僕の他に、腰が曲がってかなり年老いた老人たちだけ。耳が遠いし、ぐっすり寝ているだろうからクレームにはならない。


 不気味な妖怪は僕の隣に着地した。着地したときに、ぬちゃっと気持ち悪い音がした。

 慌てて僕は四つん這いになりながら、先生を盾にするよう逃げる。


「おうおう、やっぱりポチは妖怪を集めるんだな」

「はや、はややや……」

「怖すぎて会話もできねぇのかよ。まあ、とりあえず今日は、パフェ代ぐらいの仕事はしてやるから見てろよ、ポチ。俺様の仕事ぶりをな」


 先生はすぐさま腰元の本を開き、自分の親指をガリッと噛んだ。痛々しいほど血が出る指を、開いた本になすりつける。

 じわっと吸収されていく血。

 その血が不自然に線を描いていく。


「戻れ、垢嘗あかなめ

「ぴぎぃぃ!」


 浴室にいた妖怪――垢嘗が奇怪な声を出し、先生の持つ本へと、文字通り、吸収されていく。

 スルスルと本の中へと姿を消した垢嘗。

 開かれたページには、真っ赤な線で書かれた垢嘗の絵が浮かんでいた。

 騒がしい妖怪がいなくなったことで、浴室は急にシンとする。


「……はい?」


 目の前の光景が現実であることはわかっても、不可思議な現実に納得がいかない。

 先生は一体何をしたんだ?


「はい、回収完了ー。これでお前の部屋の風呂場は綺麗にはならねぇだろうよ」

「ど、ど、ど、どういう?」

「あ? そりゃ、お前の部屋でしていた物音も、勝手に綺麗になっていたのも、さっきの垢嘗が原因だ。垢嘗は夜中に風呂場の垢を嘗めて暮らすようなやつだしな。人に危害はねえけど、ただ不気味」


 そんな名前の妖怪なんて知らない。というか、垢を舐めるなんて普通に気持ち悪い。

 ああ、そういう気持ち悪さがあるのが妖怪か。

 どこか納得してしまう自分がいる。


「とりあえず離れろ、ポチ」

「ぎゃっ」


 肘でどつかれて、僕は浴室内にしりもちをつく。

 そこは垢嘗が舐めていた場所だと考えるとやっぱり無理。

 僕はすぐに先生に飛びついた。


「んだよ、気持ち悪いな。離れろってーの」

「嫌ですっ! ここにいたくない! やだ、さっきの妖怪が舐めてたなんて!」

「はぁ? もともとはお前が真面目に掃除しなかったのが悪いんだろうが」

「バイトで時間がなかったんですー! もうやだ! 先生、泊めてください!」

「はぁ!?」


 逃がすまいと先生の腰にしがみつく。

 もう初対面とか、人としてどうとか、そういうのはどうでもいい。

 こんな気持ち悪い体験、二度と御免なのだから。



 ----


 先生がしぶしぶ(本気で嫌がっていたけど、僕が諦めなかったせいで)納得してくれたおかげで、先生の家に来た……はずなのだ。


 僕の前に建つのは、今まで僕が寝泊まりしていたおんぼろアパートと似たような空気を感じる建物だった。

 まるで廃墟のように廃れた路地を通った先にあった家は、モノトーンの家。古く、さびれたそこの入口に鍵を差し込む先生。本当にここに住んでいるのだろうか。


「ここが、家……?」


 僕の家よりも見た目が悪い。だから出たぼやきに、先生はケラケラ笑いながら「俺の家だ」と言う。


「一人であのアパートに住むか、俺とこの廃墟みたいな家に住むか、今ここで選べ」


 究極の二択。

 ボロボロで妖怪に舐められたところか、ただただボロボロのここか。

 気持ち悪さもなく、生きていて何よりも怖い妖怪から救われるのであれば、このボロボロな先生の家を選ぶしかない。


「ここに住みます」

「はっ! マジかよ、ポチ。お前、そうとう頭狂ってるよな!」

「何でですか! どっちがいいか考えたら、こっちを選びますよ!」


 声高らかに笑う先生。


「まあいい。その選択は間違っていねぇ。少なくとも、あっちで暮らすよりかは、いい生活ができるだろうしな」


 そう言いながら扉を開ける。

 すると中は見た目に反して、かなり整えられていた。


 ボロボロに見えたのは外見だけ。玄関に入ると、自動で照明が付き、室内を照らしてくれる。

 玄関、というような段差もないそこを、先生は雑に靴を脱ぐと、ペタペタと歩いていく。スリッパとかはないらしい。


「リビングと風呂があっち、そっちはトイレ。全部一階に必要なものはそろっているはずだ。俺はそろそろ寝る。二階には上がって来るなよ? じゃ」

「嘘、それだけです、説明」

「ふわぁあ……食ったし、働いたからもう眠いんだよ。リビングの方にソファーあるからそこで寝ろ。じゃあな、ポチ」

「え、ちょっと!」


 先生は大きなあくびをしながら二階へ行ってしまった。

 僕は一人、初めて訪れた先生の家の玄関でただただ立ち尽くす。


 勝手に探索したり、使ったりしていいものなのかわからないから。


「でも、僕も、眠くなってきたなぁ……」


 先生のあくびがうつったみたいで、僕も涙を出しながらあくびがでた。

 時計は持っていないけど、おそらく丑三つ時は過ぎているだろう。もう少しで日が昇るはず。

 転んで叫んで動いて、叫んで……さすがに疲れた。僕は初めて、人の家のリビングで深い眠りに落ちた。



 ----



 翌朝――といっても昼だが――、やっぱり勝手にお風呂とキッチンを使った。

 タオルとかも一通りあったし、あのアパートの生活よりずっと広くて快適である。勝手に使ったことで、先生から何も言われないから、問題ないのだろう。


 僕は派遣のバイトを辞めて、アパートを出た。

 垢嘗がべろべろ嘗め回した部屋に住むなんてできない。

 ちゃんと先生の許可をもらったし、僕の生活は先生と共に送ることとなったのだった。

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