7-5
最大ボリュームで叫んだ。
そうしたら、言葉が通じたのか、止まったのだ。風が。
風が止まれば、浮いていた段ボールが次々にドシンと音を立てて床に落ちる。運よく先生にそれが当たることはなかった。
「先生っ!」
僕は安全地帯だった捕獲機からはい出て、倒れたまま動かない先生の元に駆け寄る。
「しっかりしてください、先生!」
先生の額から、一筋の血が流れ落ちる。
ぶつかりどころが悪かったみたいだ。網剪に襲われたときの傷がまだ癒えていないこともあって、出血しやすい状態だっただろう。
「どうしたらっ……えっと……」
止血した方がいいのだろう。でも何ですれば?
僕が慌てふためく間にも、血がどんどん流れていく。
『人間……』
「窮奇……」
背後に気配を感じて振り向いたら、二匹の窮奇が僕を見ていた。
『そいつ、そんなんじゃ死なないよ』
「は? 何言ってんだよ。たとえそうだとしても、この血は止めなきゃでしょ? そうだ、窮奇のどっちかは、傷口をふさげるんでしょ? 先生のこの傷も……」
窮奇は傷口を瞬時に塞いでくれる。
そう話に聞いているから、それで先生の傷口をふさげると思ったんだ。でも。
『無理だ。弟の力は人間にしか効かない』
弟と呼ばれた窮奇がどこかしょんぼりした顔をする。
「だから先生を……」
『無理だ。お前……いや、主。我が言っている言葉の内容が薄々わかっているだろう?』
「うっ……でもっ!」
わかってしまった。窮奇の話している内容の意味が。
窮奇の力は人間に効果がある。だけど今、目の前でれている先生には効果がないと言う。
いつもはそんなに頭が働かないというのに、今日の僕はしっかり頭が働いてしまっていた。
「そんな、はずは……っ」
窮奇の話が意味しているのは、『先生が人間ではない』ということ。
だったら何なのか。
それも僕の頭はフル稼働して、瞬時に仮説を作った。
さかのぼるのは先生と出会った日のこと。
夜の道で偶然会って、そのままファミレスに行った。その時先生は、僕に扉を開けさせて、会計も僕がしている。
先生が住んでいるこの家に僕が来たとき、まず立地がおかしかった。
せめて近くに買い物ができるような場所があってもおかしくないのに、この家の付近には廃墟ばかりが並んでいる。
それと冷蔵庫の中にはろくに食べ物がなかった。
僕がここで暮らし始めてから、日常生活で必要な物を外で何かを買ったりしたときは、僕が全て支払いを行っている。
買い物も、外食も。
外食するときは、いつも席にあるタブレットで注文できる店だし、先生が僕に財布を投げてきて、これで払えといつも言っている。
タクシーで移動したときは、先生と運転手が会話することはなかった。
山姥の件で警察に通報したのも僕。
事情聴取を受けたのも僕。
何も疑問には思ってこなかったけど、先生が人間でないとすれば納得がいってしまう。
先生が人間ではなくて、妖怪であるならば。
妖怪は普通の人には見えない。
だから、注文時に会話しなくていい店を利用した。
また、インターネットなら人と会話が不要だから、多く利用していた。
妖怪ならば主食が違うのだろう。
だから冷蔵庫の中身を気にする必要がなかった。
人気がない廃墟街に暮らしているのも、人との関わりをなくしたいからだろう。
タクシー運転手が僕に向けてずっと話していたのは、先生の姿が見えないから。
僕が一人であの山に向かって、行方不明事件を解決したのだと思ったのだろう。
警察も先生のことが見えていないから、だから僕にばかり話を聞こうとしたのだ。
納得してしまう。
先生の行動のすべてが、先生が妖怪であるということに。
「うっ……」
急に僕の頭が痛み始めた。
鼓動に合わせてズキズキと痛みが増す。
『主?』
「ちが、う。僕は、僕だ……」
痛みを我慢しようと目を閉じれば、頭の中に僕のものじゃない記憶が再生される。
古い作りの家。渋いお茶を出してくれたのは老夫婦。
和服を着た老夫婦が僕に向かって何かを話している。
そしてそれを僕がメモしていく。
場面が変わって暗い室内。
ろうそくで手元を照らしながら、僕は何かを書いている。
文字はほとんどない。これは、絵だ。
墨をつけた筆で、迷わず書いている。
書いていくのは、生き物の絵。いや、正確には妖怪の絵。この絵は、先生の持つあの本の中の絵だ。
筆を動かすスピードを変えることで濃淡つけている。
僕は絵を書くことは苦手だ。だから、こんな絵が僕に書けるわけない。
「ああ、やっと帰ってきたのかい?」
僕の口が、体が勝手に動く。
視線が手元の絵から、僕の後方へと向けられる。
そしてそこに立っていたのは、紛れもない先生だった。
「これでも急いだし。なかなか見つからなかったんだよ」
「ふふ。そうだよね。君にしては早かった気がするよ」
先生が何かを集めてきたらしい。
その内容が書かれた紙を、乱雑に床へ置く。
「ああ、ありがとう――木魅」
知らない記憶はそこでプツリと終わった。頭の痛みも治まっている。
一体あれは、なんだったのか。誰の記憶だったのか。
そして、先生はやっぱり――。
「つっ……痛ぇ……」
「先生……」
先生が意識を取り戻した。
眉をしかめながら、ゆっくり体を起こす。
「大丈夫ですか? 先生」
「ああ。それより、ポチ。窮奇はどうした? それとお前、俺の……いや、何でもない」
先生が何か言葉を飲み込んだ。
でも、その言葉が何だったのか、想像がつく。
妖怪を知る僕には、『ありえない』ことなどないのだとわかっているから。
だから、先生が聞きたかったこと。先生の記憶を見たのかという問いであっても、何も疑問を抱かない。
「残念ながら。窮奇は、まだここにいますよ。二匹とも」
聞かれたくないのであれば、聞かないでおこう。もし、必要になったときにはきっと先生が自分で言うはずだから。
僕はいつの間にか肩に移動してきた窮奇を指差せば、窮奇たちはそこから先生をじっと見つめた。
「しっかりそいつを回収しとけ」
「……わかりました。先生はどうするんですか? 傷もまだ……」
髪の毛をぐちゃぐちゃにかき乱し、先生が立ち上がる。そして部屋を出て行こうとするのを、僕が引き留めた。
だけど、先生はただただ短く、「しばらく休む」とだけ残して、目を合わせることなく部屋から姿を消した。
「先生……」
すっかり静かになってしまった部屋に、僕は取り残された。
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『主。それはうまいものなのか?』
「そうだね。これはおいしいよ」
いつもなら先生と一緒に食べる朝食を、あの日以来、僕は窮奇と一緒に食べている。
ここ最近、朝食のメニューはホットケーキのみ。
先生の好きなたっぷりのメープルシロップをかけたものだ。
『それ、我らも食べていいか?』
「ああ。どうぞ」
二匹の窮奇はテーブルの上に乗って、僕のホットケーキをかじる。
『甘いな。だがうまい』
「それはよかったよ。食べたら本に帰りなよ」
『気が向けばな』
窮奇はもぐもぐとホットケーキを食べ続けるので、すっかり僕の分を全てそのお腹に収めてしまった。
『今日もあやつは来ないのか』
「……そうだね」
先生の分のホットケーキも用意している。だけど、それを先生が食べにくることはない。
窮奇もまた、本の中に帰る気もない。
見た目が小動物のようだからか、それとも僕が寂しいからか、窮奇が妖怪とわかっていても僕は窮奇から逃げようという気はしない。自分に害をなすわけじゃなさそうだから、窮奇は最近、僕の近くをうろうろしている。
『主、そろそろ食った方がいいんんじゃないの? 最近やつれているよ』
「大丈夫だよ。お腹が減ったら食べるから。あ、もうこんな時間だ。僕、買い物に行ってくる」
『ついてく!』
「着いてきてもきっとつまらないと思うよ」
『それでも行く!』
すっかり窮奇は僕に懐いた。
二匹のうち、言葉遣いが幼い末っ子窮奇――僕はチビと呼んでいる――が、僕の肩に飛び乗る。
残った窮奇はチビの兄で、三兄弟の長男らしい窮奇のことは、ボスって呼んでいる。ちなみに次男は本の中だ。
風を起こすボス。傷をつける次男。そして、傷口をふさぐチビ。
それが窮奇の本当の姿である。
「じゃあ、行ってくるね」
『おう』
バッグと小銭ばかりはいった自分の財布を持って家を出る。
必要なものを買うときの現金はいつも、玄関にむき出しに置かれているから、今、財布が軽くても問題ない。
だって、ほら。玄関にまた、お金が置かれている。
僕が気づかぬうちに、先生が毎日二万円ずつ玄関に置いているのだ。
それを財布に入れて外に出る。
変わった日常。
寂しいけれど、僕には何もできないのだ。
いつか。いつかきっと先生が話してくれるはず。
僕のこと。
先生のこと。
それを待つことしかできない自分が情けない。
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