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 幽谷響は本を投げるように手放した。

 それを慌てて拾う。


「っ……!」


 もう、ここに居座る理由はない。

 僕はバッと立ち上がって、先生のところに向かって走った。


「待ちなさいよ!」

「ぎゃぁぁぁぁ! ついてこないでくださぁぁぁい!」


 それなりに僕はスピードを出したつもりだ。

 なのに、僕の後ろにさっきの女性が走ってきている。

 化け物なのか、あの人は。


「やだぁぁぁぁ!」


 叫びながら山を下る。

 僕の悲鳴は山中に轟いた。



 ----



 絶叫しながら先生のところに戻った。

 もちろん僕の手には、盗られた先生の本がある。

 早くこれを持って帰りたい。もう、幽谷響の回収は、後日にしよう、先生。

 言葉を繰り返すだけの妖怪なら、回収を後回しにしても問題ないだろうし。


「先生ーっ!」


 先生を寝かせたベンチ。その手前で叫べば、むくりと体を起こす人影。


「ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー、うるせえんだよ……こっちは頭も痛えし……」


 嫌そうな顔で僕を見る。その後ろに続く人も見えたらしい。

 少し赤い顔をぐにゃっとさせて、今までに見たことのない最上級の嫌な顔をしている。


「先生、本は取り返しましたので、早くここから出ましょう」


 肩で息をしながら先生の元に向かう。

 体を起こした先生に、本を手渡し、早く帰ろうと広げていた荷物を集める。


「おお、でかしたポチ。だけど、余計なもんまで拾ってきたな……」


 先生の眉間に深いしわが刻んで、目を凝らしながら僕の後ろを見ている。

 その方向を僕も見れば、あの女性がニヤニヤしながらやって来ていた。


「よぅ! 愛しの弟よ! 元気にしているか? 姉さんは見ての通り、ピンピンしているぞ」

「うっせぇ……頭痛えんだよ。くるんじゃねぇよ、クソ姉貴……うっせぇ……」


 二人を交互に見る。

 頭を抑える先生。そして、先生を見下ろす女性。

 発言からしてやっぱり……姉弟、なのか?

 言葉遣いは似ているけど、ハキハキとした女性と、やる気がほとんど出ない先生の二人が?


「私だって、ここには妖怪探しに来ているんだ。そこにお前が来たのだろう? 私の邪魔をしに来たのはお前だ」

「こっちもあいつを捕まえに来たんだ。クソ姉貴は黙ってろ。」

「はいはい。まったく、我が儘な弟だ」


 なんだかじろじろと僕が見られている。気になるけど、あえて触れないでおこう。


「っし……戻れ、幽谷響」


 先生はいつも通りに妖怪――幽谷響やまびこの名前を呼ぶ。それによって幽谷響の体は、あっけなく本の中へと吸い込まれていく。


「ポ、チ……ある……じ……」

「……え?」


 顔の横を幽谷響の体が本へ向かってサッと通ったとき、声が聞こえた。

 誰の声でもないもの。多分、幽谷響の声だ。

 でも、決して誰かの声を真似たわけじゃなかった。山谷響だというのに。反響音でないというのならば、幽谷響は自ら会話をした……?


「はい、回収ー……疲れたし、帰る」

「……先生」

「あ? なんだ?」


 ポンと本を閉じ、ぐっと体を伸ばす先生に聞く。


「さっきの幽谷響、妖怪ですよね?」

「ああ、そうだ」

「だったら、どうして今、ポチって……それに、あるじ? って言うのは……?」


 確かに聞こえた声。僕だけが聞こえたわけじゃないと思う。確かに幽谷響が話したのだ。


「……何言ってるんだ? もともと人間だった白児しらちごならともかく、エコーでしかない幽谷響に会話は無理だ」

「です、よね……?」


 僕の声は風に流され消えていく。

 理解はしても納得はできない。幽谷響は確かに自ら言葉を発した。妖怪でも会話ができるものがいるのではないか。僕の頭はそう考えていた。


「おい、弟! ちょっと来い!」

「はぁ!? なんで俺がっ……」

「あ、ちょっとっ……」


 先生がお姉さんに無理やり連れていかれた。

 先生の体調はよくないままだけど、家族ならまあいいか。

 僕には聞かれたくない話があるのだろう。家族内の話かも。

 僕から離れて、二人は木の下で何やらを話している。

 手持無沙汰になった僕は、ベンチに座ってそこからの景色をじっと見る。

 青い空。緑の斜面。

 大きく深呼吸をして、久しぶりの自然を満喫する。


「妖怪って、何なんだろうなぁ……」


 小さい頃から当たり前に見えていた存在を改めて考えてみると、よくわからないものだ。

 わからなくても確かにそこに存在している。

 何を食べて、何を想い、何をしていたのかは知らない。

 でも、僕に近寄って来る。

 まとまらない思考が嫌になってきた。


「帰るぞ、ポチ」

「お話は終わったんですね。先生の調子も悪そうですし、早めに帰りましょう。では、お先に失礼します、お姉さん」

「またな、妖怪少年! 弟をよろしく頼むよ!」

「……ええ」


 何をしに来たのかわからないけど、お姉さんはこのままここに残るらしい。こんな山の中に何の予定があるのか。

 いつの間にか天狗もいなくなっているし、これ以上妖怪に出くわしたくないから、僕は先生と共に帰路についた。



 ----



 長時間の旅路を終えて、その地域のご当地グルメに目をくれることなく、モノクロな家に帰ってきた。

 バスではよく寝たおかげで、僕も先生も少しは体力を回復させている。その証拠に、家に入るなり真っ先に冷蔵庫に向かって、しまってあった紙パックのコーヒー牛乳をぐびぐび飲んでいる。

 モヤモヤしている僕とは反対に、いつも通りの先生。


「つっかれた……」

「同意だな。さすがに俺でもあそこまでいくと疲れる」


 腰に手を当てて飲む姿は、まるでお風呂上りに牛乳を飲むようだ。


「先生のお姉さん、何しにあそこにいたんです?」

「知るか」


 まだ足りないのか、先生は甘味を求めてさらに冷蔵庫を漁る。


「先生、甘いもの好きですね。食べ過ぎて寝込むとかはやめて下さいよ。虫歯とかも気をつけてくださいね」

「ふんっ。ならねぇよ、そんなこと。妖怪回収すると、疲れるんだよ。疲れには甘いものだろ」

「そうですけど……」


 次々に冷蔵庫から取り出されるのは、プリンやアイス。どれも甘いものだ。


「晩飯はホットケーキで」

「流石にそれは不健康なので、違うものにしますよ」

「は?」

「そんな顔しても駄目です」


 食べても太らない体質、羨ましい。

 甘味だけじゃ偏った食事になってしまうから、今日は野菜炒めにしよう。

 今日みたいに倒れられてはたまったもんじゃない。これからはバランスのいい食事を用意しないとな。

 甘い匂いが漂うキッチンで、僕は早速夕食の準備を始めた。

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