2-3


 扉が開かれると、ぶわっと強い風と一緒に、冷たい雨が吹き込んでくる。

 もともと濡れている僕も、さらに濡れて体が震えた。


「出たな、クソ犬。こりゃあ、きついしつけが必要だなぁ?」


 確かに犬の姿だけど、妖怪だ。なのに先生は全く怖がるような顔はしていない。むしろ、口角を上げて楽しそうな顔で妖怪を見る。

 一方で妖怪の方はというと、四足歩行でじわじわとこちらへ近づいてきているじゃないか。


「ひいいい! こわっ!」

「うるせぇんだよ、ポチ! 黙ってそこに居ればいいんだ! わかったな!?」

「はいいいいっ」


 声を出したら怒られた。

 本当に僕はここにいていいのか。先生に危害が及ぶ可能性もあるっていうのに。

 でも今は、玄関先に立つ先生の背中を頼るしかない。


「そうしとけ、ポチ。よし、それじゃあ……戻れ、犬神いぬがみ


 また、指をがりっと噛んで出た血を本に吸わせる。そして目の前で唸る妖怪――犬神が赤い線を描いて本の中に吸い込まれていく。


 あれだけ僕が怯えて、叫んできたというのに、あっという間に先生は解決してしまう。


 犬神の姿が僕らの前から消えたとき、先生の手元の本の中に袈裟を着た犬神が座っている絵が記されていた。


「ふぅ……」

「すごい。それ、一体どうなってるんです?」

「説明は後だ。あと一匹残ってるし」

「あ……」


 犬神と共にいた子供――白児しらちごと呼ばれる妖怪は、悲しげに、ただまっすぐ立っていた。


「先生、妖怪って会話できるんですか?」

「は? んなのできるわけねぇだろ。あっちが人の言葉を理解しても、人間に通じるように言葉を話せねぇのが普通だ」

「でも僕、あの子と会話しましたよ」

「はあ!? そんなことできるわけ……おい、ちょっと待てっ」


 僕の足は、先生の横を通り過ぎて白児の元に向かう。

 白児が妖怪だっていうことはわかっている。だけど、見た目は幼い子供だ。今までに見てきた妖怪の中では一番怖くない。

 何より、僕に「逃げて」って言ったのだから、多分悪い妖怪じゃない。


「なあ、ぼく」

「っ……」


 白児の前にしゃがんで、目線を合わせる。すると白児は眉尻を困ったかのように下げて、僕から顔を逸らした。


「君は僕に逃げてって言ったよね。どうして?」


 聞いても口をへの字にして、答えは返ってこない。


「僕、妖怪は苦手……だし、怖いけど、君はちょっと違う気がするんだ」

「違うも何も、そいつは元人間だからな。だから話せたのかもしれねえな」

「え、先生?」


 僕たちの頭上に、先生が傘を差した。

 濡れなくなったことと、不満そうな先生の声に顔を上げれば、じっと白児を見ている。

 その目はとても冷たい。


「そいつはもともと人間だ。犬に殺された子供が、白児になる」

「そんな……」

「あくまでも元だ。もう妖怪になっている妖怪自体、本来いないもの……空想の生き物だ。情けをかけても仕方ねぇんだよ。とっとと回収するぞ」


 先生が本を開いた。

 それを僕が奪い取る。まだ話は終わっていないのだから。


「おい……それを返せ。そいつの居場所はここじゃねえんだ。そいつらはこの本から飛び出したんだし。もといた場所に帰るだけだってーの」

「だとしても、話を聞いたっていいじゃないですか!」

「ったく……聞いたところで何も変わんねぇよ」

「でも、この子は僕に逃げてって言ったんですよ! なんでそんなことを言ったのか知りたいです!」


 ヒートアップする口論。先生は苛立ちが態度に出る。


「……逃げないと、食べられちゃうから」

「あ……」


 白児がしゃべった。それで僕らはぽかんと口を開いたままになる。


「食べられるの、痛い。だから。ごめんね」


 白児はもぞもぞと、後ろから黒い傘を差しだした。

 まぎれもない、それは僕が道端に落としてきた先生の傘だ。

 この子はわざわざ持ってきてくれていた。


 人を想う行動。痛みをわかっている。

 妖怪でありながら、人間らしいこの子を、紙の中に閉じ込めてしまうのは可愛そうだ。


「情けは無用だ。犬神と共に帰れ」

「うん」


 先生の手は、僕が奪い取った本を掴んでさっさとページをめくる。

 そして、固まりかけていた指先を再び噛んで、本に擦り付ける。


「戻れ、白児」

「うん。お話、できてよかったよ、お兄ちゃん」

「あ……」


 白児は先生の本の中へと吸い込まれていった。

 残ったのは、白児が持ってきてくれた傘のみ。

 ちゃんとそこにいたのに、もういない。


「妖怪は妖怪だ。それは変わらない。それに妖怪は人が生んだ化け物なんだよ」

「……だから何だって言うんです。あの子は迷惑もかけないです。それをその本に……そもそも、その本は何なのですか。妖怪が吸い込まれていくし」

「ああ、これは……」


 先生は、古びたその本を手に話してくれた。



 ----


 妖怪は、人の願い、思いから生まれた。

 今となっちゃ、そんなことあり得ないが、昔の人は違う。


 天災も厄災も妖怪のせいにしてきたからな。

 それで自分たちの心を守ってきたわけだ。


 隣のばあさんが姿を消した。

 畑が食い荒らされた。

 歩いていただけなのに、足を何かに切りつけられた。


 何がそれを引き起こしたのかは、当時の人たちにはわからなかった。でも怖かった。

 だから、それを妖怪のせいにした。


 妖怪がばあさんを連れ去った。

 妖怪が畑を食い荒らした。

 妖怪が切りつけてきた。


 見えないからこそ恐ろしい。

 恐怖は伝播する。

 次第に話に尾ヒレがついて、語り継がれていくと、そんな妖怪を記録しようとする人が現れたらしい。


 多くの人の話や過去の話を探して、名前や特徴を記録する。

 そうして出来たのが、画図がず百鬼夜行ひゃっきやこう


 俺が持っているのはそのレプリカだ。

 どういう訳か、この妖怪図鑑とも言えるこの本の本物から、ぞろぞろと妖怪が飛び出しているのが今の現状ってわけ。


 放置しておけば、妖怪は本来の役割を果たそうと人を襲いかねない。

 それを防ぐために、俺は妖怪を集める仕事をしてるっていうわけ。


 俺と……俺の家族でそれぞれ担当する本を分けて分担してるけど、妖怪が見つからなくて困ってたんだよ。

 いたとしても、俺の担当外のやつとかだし。


 そもそも回収するには、妖怪が記録された本と妖怪よ名前、それと本の持ち主の血が必要だ。

 その三つが揃ってやっと、妖怪を元の本に戻せるんだ。


 だからこの前のファミレスの時みたいに、ひょっこり顔を出した妖怪を相手にするのは無理。

 担当外の妖怪だったら、俺は無力。

 担当の妖怪なら、回収する。


 面倒だが、地道にやるしかねぇんだよ。

 それが俺の仕事であり、この本の役目だ。



 ----



「そういうわーけ。俺はこの本を妖怪で埋める。そうしたら役目御免で、めんどくせぇ家から何も言われずに済む。ちなみにこの本は、『画図百鬼夜行前篇陰』、三部構成の一番最初のやつ」


 わかったか、と言う先生。なんとなく、ほんと、なんとなくだけど話がわかった気がする。でも、まだ腑に落ちないところもある。


 白児も妖怪だから、元の場所に戻った。

 それは納得できるとして、そもそも何故本から逃げ出したのか。それに、先生とは何ら関係の無い僕が妖怪を見ているのか。


 物心ついたときには妖怪が見えていたし、妖怪につきまとわれていた。

 周りにはそれを信じてくれる人はいなくて、誰も僕を助けてはくれなかった。


 それは妖怪が本の中に留まってくれていれば、起きなかっただろう。

 何が発端でこんな世界になってしまったのか。


「お前、いつから見えてるんだ?」

「いつって……ずっとですよ。気づいたときには見えていましたし」

「余計わかんねぇな。何でに見えているのか」

「僕が知りたいです」

「だよなぁー……あ、雨止んだ」


 先生が傘を降ろす。

 冷たかった雨が止み、厚い雲の隙間から少しだけ青い空が見えた。


「はーぁっ。回収したら、腹減ったし、何か食いに行くぞポチ。とっとと着替えてこい」

「先生が奢ってくれるんです?」

「……今日のところは、な。犬神を呼び寄せたからご褒美に奢ってやるよ。十秒で支度しな!」

「やったぁ! あ、僕、他に服がないので、先生のをお借りしますね!」


 先生はゆっくりと、僕は猛スピードで家の中に一旦入る。

 濡れた服を着替えて、僕たちは外食をしに雨上がりの道を歩いた。



 ☆



 後日、僕は先生にパソコンの使い方をしっかりと教わった。

 買い物をするのはまだ難しいけど、調べ物ぐらいなら出来るようになった。


 そこで犬神、そして白児について調べた。


『犬の頭部のみを出して生き埋めにし、その目の前に食物を置く。餓死寸前、食物に顔を伸ばしているとき、その首を切る。そしてそれを焼いて骨にし、祀る』

 いくつか説はあるけど、どれも残酷。

 そんな方法で生まれた犬神。


『犬にかみ殺された子供がなる妖怪』

 それが白児。という説もあった。


「人が生んだ妖怪と、動物に殺されて生まれた妖怪か……残酷だな」


 僕の声は、静かな家に溶けて消えていく。

 あくまでも言い伝えの話だけど、妖怪だけじゃなくて、人間が怖いとさえ思った。

 そして、それを記録しようとした人の気が知れない。

 少なくとも僕みたいなビビりじゃない。

 先生みたいに、妖怪を前にして笑える人なのだろう。


「ポチー、飯は?」

「ああ、お昼ですか? 今から作りますよ」

「んじゃ、ホットケーキで」

「わかりました」


 寝癖のついたぐしゃぐしゃの頭で顔を出した先生。

 僕はパソコンを閉じて、キッチンに立った。

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