遥か空の小夜曲

礫奈ゆき

戻らない日々

 雪が舞い降る夜のことでした。


 今日はクリスマス。民家の窓からは温かな明かりと家族団らんの声が零れてきます。そんな眩しい光を避けるように、ハルカは郊外の暗い夜道を歩いていました。


 ハルカの両親は共働きで、年の暮れだと言うのに今夜も家を空けています。独りで寂しく留守番しているのも、クリスマスの賑やかな喧騒を聞かされるのも嫌で、ハルカは人気のない街の外れまで来たのです。


 ぎゅ……ぎゅ……。


 降り積もった雪を踏みしめながら歩きます。目的地があるわけでもありません。ただ、どこか遠く……、遠くに行きたいと、ハルカは思っていました。


 どれくらい歩いた頃でしょうか。振り返れば、街の灯りが豆電球に見えるくらいずっと遠くで。雪道には同じ歩調で刻まれた足跡が延々と続いています。ずいぶんと遠くまで来たようです。


 ふと、前方に目を遣ると小さな広場がありました。


「こんな所に公園があったんだ……」


 ひっそりと息をするように佇む遊び場。もちろん、こんな時間に遊んでいる子はいません。街灯がひとつしかない夜の公園は淡い白の光に照らされ、音の消えた世界にまるで時を刻むように雪が積もっていきます。


 神秘的な光景に目を奪われていると、ハルカは違和感に気付きます。公園の地面の一部が不自然に盛り上がっているのです。遊具に雪が積もっているのだと最初は思いました。けれど、違うようです。


 入り口の柵をくぐって、恐る恐るその小さな丘に近づいていきます。


 世界はとっくにクリスマスの夜に沈んでいるのに、雪が光を反射して、公園の中は街灯が不要と言わんばかりに薄明るく包まれています。


 丘までたどり着き、その場に屈みます。何かが埋まっているのは確かなようです。ハルカは積もった雪を払っていきます。最初は新雪のふんわりと柔らかい感触でした。次第にそれは重く湿った質感へと変わっていきます。


(まさか……いや、でも……)


 嫌な予感が脳裏を掠め、雪をよける手が速くなります。


「……っ! はぁはぁ……っ!」


 体の中に冷たい汗が流れるのを感じます。少しばかりの好奇心と、大きな焦燥と緊張――それがハルカを駆り立てます。

 手袋すらもどかしく感じ、手を覆っていた布地を脱ぎ捨てると、しもやけになるのも厭わず雪をかき分けていきます。


 そして――


「…………」


 その時の気持ちを、どう表現したらいいでしょう。それは当事者であるハルカ自身にも分かりません。喉は干上がった井戸のように乾ききって、肩からは力が失われます。絶句したハルカの視線は、その一点に釘付けになりました。


 雪の中に埋まっていたのは、ハルカと同じくらいの歳の女の子だったのです。



「……ん」


 深い眠りからの覚醒でした。重いまぶたを開けると、少女は横たわったまま碧い瞳をキョロキョロと動かします。見慣れない部屋に居ました。老朽化が進み、冷たい隙間風が入ってくる部屋です。少女の他には誰もいません。体には毛布がかけられていて、ベッドに寝かされています。


 そこに――


 ギシ……ギシ……と、床を踏む音が耳朶を打ちます。誰かがこの部屋に近づいてくるようです。徐々に足音が大きくなり、やがて部屋の前でぴたりと止まりました。少女は部屋の扉をじっと見つめます。木製の扉は鈍い音を立てながらゆっくりと開かれました。


 扉の向こうに立っていたのは少女と同い年くらいの女の子。栗色の髪に若葉色の瞳をした少女。名をハルカといいます。ベッドで寝ている少女と目が合った瞬間、ハルカは目を大きくして、言葉を口にするよりも先にベッドへ駆け寄りました。


「良かった! 目が覚めたんだね!」


 少女の手を強く握ります。雪のように白く、冷たい手でした。肩の辺りまで伸びた綺麗な白髪がさらりと揺れます。


「ずっと眠ってたんだよ。何日も目が覚めなくて……このまま起きなかったらどうしようって、私……」


 ハルカの目尻には自然と涙が溜まっていきます。突然のことで混乱しているのか、碧眼の少女は何も言いません。


「君、雪の中で倒れてたんだよ。心配でここまで運んできたんだけど……。あっ、ここは私の部屋だから、安心してね」


 矢継ぎ早に話すハルカに、少女は依然として反応を示しません。瞬きひとつせずに見開かれた瞳には、心配そうな表情を浮かべるハルカの姿が映っています。深い眠りから覚めたばかりで脳にまだ血が通っていないのか、もしくは自分の置かれた状況が把握できないのか、いずれにしても少女の反応は無機質なものです。


「ごめんね一方的に喋っちゃって。私ハルカっていうの」

「…………」


 口だけでなく眉ひとつ動かさない彼女に、ハルカの胸の底で燻る不安は次第に大きくなっていきます。どうして何も話してくれないのでしょうか。記憶が混乱しているのでしょうか。初対面のハルカに怯えているのでしょうか。


 でも、違うとしたら……。そうじゃないとしたら。


 一抹の不安を払拭するように、ハルカは端的に訊ねます。考えすぎだって自分に言い聞かせるように、できるだけ笑顔を繕って。


「お名前はなんていうのかな?」

「…………?」


 名前くらいは返ってくると思っていました。だから……決してハルカを拒絶しているわけではなく、本当に言葉を理解していない様子が、ハルカの失意の色を濃くしたのです。


 雪の中で倒れていた少女は――碧い瞳に美しい白髪を宿したその少女は――自分の名前はおろか、どこから来たのかさえ覚えておらず、意思の疎通すらできなかったのです。



「はい、あーん」

「?」

「あーん、だよ? あーん」

「……??」


 スープを掬って少女の目の前に差し出しますが、ぴくりとも反応せず、じっとハルカを見つめています。今はもう起き上がれるまでに体調は回復していて、ハルカのパジャマを着させてもらった白髪の少女は、ベッドの縁にちょこんと座っています。


 ご飯を食べようとしてくれない少女に、ハルカは自分の口を大きく開けて見せて、スープを飲んでくれるように伝えます。しかし、ハルカの意図が理解できないのか、きょとんとした表情でハルカと食器を交互に見比べます。


 少女は少なくとも眠っている数日間は食べ物を口にしていません。見た所、衰弱している感じはありませんが、このままでは栄養不足になると危惧したハルカは、心を鬼にして無理やりスプーンを口の中へ押し込みました。けれど、顎の筋肉に力を入れていない少女の口からは、琥珀色の液体がだらだらとそのまま零れてしまいます。


「わ、わわわっ!」


 ハルカは慌てて布で口元と汚れたパジャマを拭いてあげます。


「お腹減ってない……かな? ごめんね、本当はもっとおいしい物を食べさせてあげられたらいいんだけど、私のお家……お金無いから……」


 具は自宅の畑で採れた玉ねぎとキャベツにコンソメで味付けしただけの質素なものです。もっと栄養のある料理を作ってあげられたら食べてくれるかもしれないし、もっと早く元気になってくれるかもしれない。スープの水面にはハルカの寂しそうな表情が映っているのでした。

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