魔法のキス

「ハルカの風邪が治らないって……どういうこと……」


 シエルの震える声はオレリアに向けられました。


「正確には風邪じゃない。風邪っぽい症状が出てるけど、免疫細胞に異常をきたしてる」

「免疫……細胞?」


 専門的な話はシエルには分かりませんが、絶望の淵に立たされているようなオレリアの表情が全てを物語っていました。


「今は風邪を誘発してるだけで済んでるけど、体の構造が根本的にダメになってる……。もう……治らない」

「そんなッ! どうにかならないの? ねえ、オレリア!?」

「シエル……。あんただって天使なら分かってるでしょ。この時代にハルカの病気を治療する医学は確立されてないの」

「オレリアの力で……”天使の力”でなんとかならないの!?」


 必死に縋るシエルに、オレリアは悔しそうに目を背けます。


 シエルの言う天使の力とは、天界に住む者に与えられる特別な力のことです。ハルカが初めてオレリアに会った時、彼女は足を怪我しました。あの時、すぐに怪我が治ったのはオレリアの治癒の力が作用したからなのです。


 しかし――


「私の力でも、どうすることもできないよ」

「どうしてッ!?」

「これは禁忌を犯した罰。転んだ擦り傷とはわけが違うのよ」

「そん……な……」


 これが、天使の羽を奪った罪。世界を滅びに導いた報い。


 シエルはわなわなと揺れる瞳でハルカを見ます。対照的に、ハルカの表情は穏やかでした。


「ハルカ……」

「自分の体のことだから……分かるの。ああ……もう、無理なんだなって……」

「そんな……っ。いや……いやだよぉ」


 救いがないなんて分かっていたのに、先だと思っていた未来は突然訪れて。為す術なく涙を零すシエルの声は、窓を叩く冬の音にさらわれていきました。



 翌日。食事を届けにきたシエルは目を丸くします。


「なに……してるの……? ハルカ」

「お裁縫、かな」


 ベッドの上で上半身だけを起こしているハルカの手元には針と布が握られていました。


「そんなことしてる場合じゃないでしょ! ハルカは病人なんだよ!?」

「お願い……シエル。これだけ、やらせて」


 衰弱している体に鞭を打って裁縫に勤しむ理由が、シエルには分かりません。しかしハルカは強い意志の下、弱々しい手付きで糸を通していきます。


「これはね、私とシエルのウエディングドレスなんだよ」

「ウエディングドレス……?」


「花嫁はウエディングドレスを着るのが伝統なの。今回は、どっちも女の子だけどね。本当はこっそり作って、当日にシエルをびっくりさせたかったんだけど……」

「そんなのいいのに……」


「私がそうしてあげたいって思ったから」

「わたしが結婚式なんてやろうって言ったから、だから、ハルカに無理させちゃったの……?」


「ちがうよ」

「じゃあどうして」


「最初はシエルのためだった。シエルが一人になっても寂しくないようにって。でも、それは私のためでもあったの。シエルとの最後の――最初で最後の結婚式で思い出を作りたいって思ったの。悔いを残さないように」

「ハルカ……っ」

「だから、これだけは私の手で完成させたいの」


 シエルは今にも泣きそうな感情をぐっとこらえます。嬉し涙は見せても、これ以上哀しい涙を見せてハルカを不安にさせたくなかったからです。


 だからシエルは言葉ではなく、別の方法で気持ちを伝えることにしました。


 幼さを残したシエルの顔は、ゆっくりとハルカに近づけられます。二人は、自然と瞳を閉じました。


「ん……」


 珊瑚色の唇から艶のある吐息が漏れました。


「えへへ……。シエルに、キス……されちゃった……」

「はうぁ……恥ずかしいね、これ」

「キスなんて、どこで覚えたの?」

「前にハルカのパパとママがしてるの見て」

「キスは結婚式までとっておくつもりだったのに」

「やっぱり結婚式でもやるんだね?」

「うん……愛をたしかめて……永遠を誓うの……」


 “永遠”……それは、二人にとって特別な意味を持つ言葉です。


「私のはじめてのキス……シエルにとられちゃった」

「わたしだって、初めて……だもん」


 シエルは頬を赤く染めました。


「でも、当日の良い予行練習になったかな」

「まだ……足りない……よ?」

「ふふ。もう一回練習する、シエル?」

「……うん」


 二人はもう一度、唇を重ねます。一回目より長く、相手の体温や匂いを味わうように。二人しかいない部屋に瑞々しい音が落ちます。


「シエルの唇、ぷるぷるだね」

「ハルカの唇はカサカサだよ」


 口付けは不思議な魔法です。重ねる毎に愛しさが増して、離れた後も柔らかな感触が残っている気がします。相手の瞳を見れば吸い込まれそうになって、自我を保てなくなります。


 人間は、天使のように言葉を介さずに他人に想いを伝達する術を持ちません。怪我を瞬時に治す不思議な力もありません。けれど、唇を重ねれば、相手のことを深く理解できます。傷ついた心を慰めることもできます。


 キスは、人の文明が発明した魔法なのかもしれません。


 窓の外では冬の凍てつく風が吹いているのに、この部屋だけ春が訪れたような温かさを覚えました。


「うん……元気出た。あともう少しで完成だから、がんばる」


 ハルカはウエディングドレスの仕上げに取り掛かります。その様子を、シエルは隣で見守ります。


「止めないんだね……シエル」

「言っても聞かないでしょ? こういう時のハルカは頑固だから」

「ふふっ。シエルは私のこと……よく知ってるね」

「当たり前でしょ。一年間……一緒に居たんだから……」

「うん、そうだね」


 そして――


 ウエディングドレスはなんとか仕上がり、二人は結婚式当日を迎えるのでした。

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