翼を失った天使
「はじめてシエルを見た時、ひと目で自分とは違う存在なんだなって分かった。怖いって思った。でも、眠っているシエルのお世話をするうちに、『ああ、こんな私でも誰かの役に立ってるんだな』って思えたの」
夜の砂浜から星の砂を探すような目でハルカは言葉を紡ぎます。
「シエルの寝顔ってね、すごく可愛いんだよ。手を添わせると赤ちゃんみたいに握ってきて。寝息のリズムがまるで子守唄みたいに心地よくて。楽しくない人生だと思ってたけど、シエルとの時間は大切だった」
ハルカの瞼の裏にはきっと、シエルと過ごした日々が走馬灯のように蘇っているのでしょう。シエルはじっと耳を傾けます。
「私の気持ちは変わっていった。シエルを見ていると、ラズベリーを
「ハルカ……」
「ご、ごめんね。いきなりこんなこと言われても困るよね。それに、女の子同士だし……」
「ううん。ハルカの気持ち、すごく嬉しい」
シエルの言葉が何よりの救いでした。しかし、ハルカはそれを素直に受け取ることができません。ここからが彼女の本当の告白だからです。
「シエルと離れたくないって思った。たとえこのまま目を覚まさなくても、ずっと私が介護して、隣にいてあげたいって思った。でも、元気になったらシエルは私の前からいなくなると思った。だって……、シエルは人間じゃないから」
ハルカには親しい友人がいませんでした。仕事で忙しい両親は家を空けることも多く。去年のクリスマスだって、本当は独りで留守番しているはずでした。
秀でた才能もなく、誰からも必要とされない。ハルカの心は底なしの沼に落ちていくようでした。
そんな時です、シエルと出会ったのは。シエルのお世話をすることで、ここに居ていいんだと認識できました。シエルが、ハルカに存在価値を与えたのです。なにより、シエルと過ごす日々が楽しくて……それだけで満たされていたのです。
「羽が無くなれば、シエルはここに留まってくれると思った。だから、わたしはシエルの羽を……奪ったの」
気づけばハルカの唇を震えていまいした。
あの日――眠るシエルの背中から羽を一枚抜いて手の平にのせました。どこまでも軽いはずの天使の羽は、黄金のインゴットのように重く感じられました。取り返しのつかないことをしてしまったと、ハルカは思いました。
でも、ハルカは自分を止められませんでした。一枚が二枚、二枚が五枚、十枚……三十枚。そのうち両手で翼の塊をもぎ取るようになって。ベッドは大量の羽で散らかり、シエルの背中から出た鮮血はベッドシーツと羽を真っ赤に染め上げました。
両手についた返り血を見てハルカは我に返ります。しかし、なにもかもが遅かったのです。
「あの時の私はどうかしてた……。自分が悪魔になった気分だった。でも、羽をちぎる手は止められなくて……。私はもう取り返しのつかない所まで来ていたの」
「…………」
「ごめんね……っ、シエル。私が……天使のシエルを殺しちゃったんだ。私が……、ぜんぶ悪いの……ッ! ごめんなさい……ごめんなさい!」
罪の告白を、シエルはどんな気持ちで聞いていたのでしょうか。落胆するでしょうか。怒りに身を委ねて復讐の牙を向けるでしょうか。恐怖に怯えハルカを避けるでしょうか。
いずれでもよかったのです。ハルカは、シエルとはもう今までの関係には戻れない覚悟で自らの罪を告白したのですから。
「お父さんが死んだのだって、きっと私への罰なんだよ。全ては私の過ちから始まったこと。だから、私はもう……シエルの隣には居られない……」
涙の先にシエルを見ると、異変に気付きます。夏だというのにシエルは自分の体を抱くように、小刻みに震えていました。いつもは柔らかな頬も、今までに見たことがないくらいに青ざめています。
「シエ……ル?」
「……っ、はぁはぁ……ッ」
「シエル? ねえ、シエル!」
呼吸が乱れ、苦しそうに胸を押さえます。次の瞬間、頭を抱えながら、地面に
「……ぁ……ぁああ……。あうあああああ」
「シエルッ!!」
シエルの身に何が起こっているのでしょうか。悶え苦しむ様子に、ハルカは狼狽します。
「シエル! シエルっ!! しっかりして!」
ハルカはシエルの背中を擦って懸命に呼びかけます。医者を呼んでくることも考え始めた時、シエルの様態が徐々に落ち着いてくるのが手から伝わってきました。それからしばらくの時間を要しました。呼吸が安定すると、シエルは諦観の表情で声をぽつりと零しました。
「そうか……。そう……だったんだ……」
「……シエル?」
光を失った碧眼をハルカに向け、シエルは呟きます。
「思い出したの、全部。自分のこと、そして……お役目のことも」
*
「ハルカの言った通り、わたしはかつて天使だった。天界からの『使い』で人間界に来たの」
「天界からの使い……?」
「天界からは不定期に天使が地上に派遣されるの」
「シエル以外にも天使はいるの?」
「天界にはいっぱいいるよ。でも、地上に送り込まれるのは一人だけ。で、今回はわたしが選ばれたんだ」
「シエルは……天使は、なんのために私たちの世界に来るの?」
「人間の歴史や進化を記録して、天界に報告するためだよ」
「報告してどうするの?」
「どうもしない。ただ記録して、それを持ち帰る。それだけ。それが……使いのお役目なの」
ハルカの質問にシエルは淡々と答えます。
シエル曰く、地球の別次元には天界が存在して、そこに住む天使のうち代表者一人が人間界に派遣される。目的は視察――人の営みを記録し、報告すること。
『使い』が来る間隔は決まっていないらしく、次の『使い』がいつ訪れるか誰にも分からないといいます。傾向として、地上で大規模な事件や自然災害が起こる前兆として、天使が派遣される場合が多いとのことです。
ハルカの脳裏に戦争の二文字が過ります。ハルカが幼い頃も隣国との小競り合いはありました。しかし、此度の戦争は違います。すぐに収まると思っていた導火線の小さな火は、あっという間に世界中の先進国を巻き込む巨大な爆弾に成り果てました。汚い利権を巡る交渉の下、各国は同盟を組み、世界は二分されました。誰の為に死に、何の為に戦うのかも分からないまま、毎日おびただしい量の血が戦場の土に染み込んでいきます。
シエルが人間界に派遣されたのは、そういった背景があるのかもしれません。
突拍子もない話ですが、ハルカは実際にシエルの羽を目撃し、触れています。人間の世には決して存在しない天使の羽衣を。どんな夢物語のような内容でも、シエルの話を信じる以外の選択肢はありません。
「本当はね、天使だって教えちゃいけないし、人間に知られてもダメなんだ。こっそり地上の生活に溶け込んで、人のふりをしながら記録活動をしなきゃいけなかったの。でも、ここに来る時、ドジを踏んじゃって……。飛行能力を制御できなくなったわたしは、そのまま地上に墜落したの……」
「それを、私が助けた……?」
シエルは肯定の意で頷きました。彼女の羽が損傷していたのはそういう経緯だったのです。
「私……シエルが天使だって知っちゃった……。私、どうなるの?」
「普通だったら天使に関する記憶は消去される。でも、今のわたしにはその力が無いの」
「どうして?」
「羽を失ったから」
「ぁ……」
「羽にはね、記憶と能力が集約されてるの。もし人間が天使の素性を知ってしまったら……」
「し、知ってしまったら……?」
「バーン!」
シエルは片手で銃の形を作ると可愛らしく戯けてみせました。
「……ごめんごめん。そんな怖いものじゃないよ。痛くないし、後遺症とかも残らない。ただ、天使に関する記憶がその人から消えるだけ」
「お、脅かさないでよ……」
シエルは一切の記憶を失っていました。その理由が氷解したのです。天使の羽は記憶の中枢です。ハルカが羽を抜き取ったことで、シエルは記憶の全てを失いました。自分のことも、お役目のことも。日常を送る上で必要な知識まで欠落した彼女の言動は幼児水準にまで退行したのです。
「羽を失ったわたしには、人から記憶を消去することはできない。もし出来たとしても、ハルカの記憶は消したくないな」
「なんで?」
「ハルカには、わたしのこと覚えててほしいから。わたしと出会ってくれたこと。一緒に雪だるまを作ったこと。学校で勉強したこと。夜遅くまでお話したこと。全部……忘れてほしくないから」
「シエル……っ」
「だから、ハルカには何も起こらないよ」
ハルカの罪を知ってなお、シエルはそう言います。ハルカは涙腺が緩み、視界が曇ガラスのようにぼやけます。
しかし、含みのあるシエルの言葉に引っかかりを覚えました。
「待って。私には……ってことは、シエルには何か罰則みたいなものがあるの?」
シエルは口を一文字に結びます。
「あるんだね? 教えて、シエル」
「言いたくない」
「どうして?」
「言うと……きっとハルカ、自分を責めちゃうから」
「もうとっくに自責の念に駆られてるよ。開き直るわけじゃないけど、私は知っておかなきゃいけない気がする。お願いシエル。シエルの身に何が起こるの?」
シエルはじっくりと逡巡したあと、観念して口を開きます。
「さっきも言った通り、羽は力の結晶で、そして天使の象徴。だから、いかなる理由があっても手放してはいけないの。もし羽を失ったら、その天使は代償を支払うことになるの」
「代償……? 代償って何?」
「…………」
「シエルっ!」
険しい表情で、シエルは重い口を開くのでした。
「羽を失った天使の代償……。それは、不老不死の体になることなの」
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