すれ違いの晩夏

  一夜明けた朝。


「ごちそうさま……」

「あら、もういいの? シエルちゃん」

「うん……」


 シエルは早々に食事を切り上げると、食器を流し台に置いてそそくさと二階に上がっていきました。覇気のない後ろ姿を、ハルカのお母さんは心配そうに見送ります。


「ごちそうさま」


 ハルカも朝食を終えて自室へ。支度をしてシエルの部屋の前に立ちます。


「シエル……学校、行く?」


 いつものように「学校に行こう」とは言いませんでした。若干の間が空いて中から返事がありました。


「ごめん。今日は、お休みする」

「そう……」


 力のないシエルの声に、ハルカは短く返します。それ以上追及もせず、家を出ました。


 夏が終わろうとしていました。シエルと出会った冬。友情を深め、新しい生活が始まった春。そして、家族を亡くし、大切な友情に亀裂を入れてしまった夏。何も言わない季節はハルカ達だけを残して過ぎ去ろうとしています。


 学校に向かっている途中、ハルカの脳内を支配するのは昨夜の会話です。


――不老……不死?


 シエルの言葉をそのままハルカは繰り返します。


――それは、歳をとらないってこと?

――うん。もともと天使は人間よりも寿命が長いんだけど、わたしはもう老いることすらなくなった。ずっと、この姿のまま。

――そして……死なない?

――戦場で銃弾をもらっても、難病に冒されても死なない。痛みは感じると思うけどね。


 瞬きすることも忘れ、シエルを見つめます。冗談で言っているようには見えません。ハルカは、体を流れる血液の温度が急に下がっていくのを感じました。まるで内蔵が次々に凍りついていくような感覚です。そこでようやく、ハルカは自分の犯した罪の重さを知ったのです。


――私の……せいだ……っ! 私のせいで、シエルは……。


 老いることも、死ぬことも許されなくなったシエル。翼をもがれた鳥は、窮屈な地上の鳥籠に拘束され、もう二度と空を夢見ることはできなくなってしまったのです。

 

 周りが老いて死んでも、シエルは死にません。たとえ戦争で地球が滅びようとも、シエルは生き続けます。それは、どんな過酷な『孤独の旅』の始まりなのでしょうか。


 膝を落として泣き崩れるハルカに、シエルはかける言葉を見つけることができませんでした。


 そのまま一夜が明けました。お互いにどう話かけていいか分からず、余所余所しい態度をとってしまいます。


 結局今日は授業に全く集中できないまま、一日が終わりました。頭を過るのはシエルのことばかり。でも、彼女のことを考えれば考えるほど胸が苦しくなります。ハルカは背負った十字架に何度も押しつぶされそうになります。


 ――帰り道。


「お~い! ハルカ~!」

「ミラ……」


 パン屋の店先で、赤髪を揺らしながらミラが手を振っています。近づいていくと、パンのいい香りが薫ってきます。


「こんにちは、ハルカ。シエルは一緒じゃないの?」

「うん……、今日はね」

「そうなんだ。あっ、お母さんが新作を作ったの。食べて感想、聞かせてくれない?」

「私お金持ってないんだ」

「いいっていいって! ハルカは友達なんだから」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 相変わらず気前のいいミラに、ハルカは表情を綻ばせます。ミラは手際よくパンを紙袋に詰めるとハルカに渡しました。紙袋の底からほんのり温かさが伝わってきます。


「シエルの分も入ってるから、渡しておいてね」

「うん、ありがとうミラ」

「なにかあった?」

「え? どうして?」

「なんか今日のハルカ、少し元気がないみたい」

「そう……かな」


 抱えている悩みを打ち明けることができたらどんなに楽でしょうか。解決策があればどんなに未来が明るくなるでしょうか。出口のない迷路に迷い込んだ気分になりました。


「私はいつも通りだよ」

「そう?」


 訝しむミラにハルカは無理して明るく振る舞います。ハルカが落ち込んでいるのはミラの目から見ても明らかなのですが、これ以上突っ込むのも無粋と判断し、ミラも同じように笑顔を作ります。


「うん! あたしの気のせいだった。ハルカは元気だ。でも、もし元気がなくても問題ないよ」

「どうして?」

「うちのパンを食べれば大抵の悩みは解決するからだよ。ミラベーカリーは世界一のパン屋だからね!」


 凛とした面持ちで豪語するミラに、ハルカは思わず笑みを零します。


「なんで笑うの~!?」

「まだミラのベーカリーじゃないでしょ。これ、ミラのお母さんが作ったやつだし」

「ゆくゆくは技術を盗んで独り立ちするんだから間違ってないもん! いつかあたしのパンで世界中の人を笑顔に――」

「はいはい、わかったわかった」

「ぶー……絶対、ムリだって思ってるでしょ、ハルカ」


 夢に真っ直ぐなミラが眩しく映ります。ミラと話せて少しだけ気力が沸いた気がしたのでした。



 ミラと別れて、再び家路に就きます。


 シエルは何をしているでしょうか。ちゃんとお昼ごはんを食べたでしょうか。危ないことはしていないでしょうか。


「私、シエルのことばっかり考えてる……」


 いつの間にか、ハルカの中でシエルの存在がこんなにも大きくなっていました。シエルに嫌われる覚悟で……、もう以前の関係に戻れない覚悟で、ハルカは罪を明かしました。


 でも――


「でも……やっぱり嫌だよぉ……」


 若葉色の瞳から零れた涙は頬を伝い、抱えていた紙袋に落ちます。前方に注意していなかったハルカは、別方向から歩いてくる人影に気付きませんでした。


「ひゃあ!」

「わっ!?」


 通行人とぶつかってしまい、横から倒れる形で転んでしまいます。


「ご、ごめんなさい!」

「いいえ、こちらこそ。立てる?」


 その人は先に立ち上がると、ハルカに手を差し伸べてくれました。


「泣いてるの……? だ、だいじょうぶ!? どこか怪我したの!?」

「い、いいえ! なんでもないです」


 ハルカは涙を拭って、尻もちをついたまま差し伸べられた手を握ります。細くて長い指です。手を伝って顔へと視線を移動させます。きれいな金糸の髪に、白い肌。背はハルカよりも高くて、年上のお姉さんという風貌です。


「本当に大丈夫?」

「はい。こちらこそ、よそ見しててごめんなさ――いっつ!」

「やっぱり怪我してるじゃない」


 どうやらハルカは転んだ拍子に足を挫いてしまったようです。


「歩ける?」

「だ、だいじょうぶです、これくらい」

「怪我人がつまらない意地張らないの! ほら!」

「あ、ありがとうございます」


 肩を貸してくれるお姉さんに掴まって、二人は歩いていくのでした。

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